『吾妻鏡』には、1251年(建長3年)、幕府が小町屋の指定を行ったことが記されています。
指定された地域以外での商業活動を禁止した法令です(参考:商人に対する規制)。
指定された小町屋は、大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上でした。
ここにある「気和飛坂」というのが「仮粧坂」のことだと考えられています。
仮粧坂は、藤沢・戸塚に通ずる要路で、鎌倉時代には多くの人々の往来で賑わったものと考えられます。
仮粧坂の下には「曽我兄弟の仇討ち」で知られる曽我五郎時致が通ったという娼家があったと『曽我物語』は記しています。
仮粧坂の下の遊女に恋をした時致でしたが・・・
その遊女のもとへは梶原景季も通っていたといいます。
ある日、景季がほかの男の話などをして遊女を困らせてしまいます。
すると、遊女は人前に出ること止めてしまったそうです。
そうとは知らず時致が娼家を訪ねると、遊女は好いていた時致にも会わなかったといいます。
遊女の友人が言うには、
「景季の虜になってしまった」
とのこと。
信じられない時致でしたが、
「あふと見る夢路にとまる宿もがな つらきことばにまたもかへらん」
という恋歌を残して去ったといいます。
しばらくしてこの歌をみた遊女は後悔をし泣き崩れたそうです。
そして、遊女は仏門に入り出家します。
遊女が出家したことを聞いた時致は、
「自分の想い人が出家したいま、思い悲しむことはなくなった」
として、父の仇工藤祐経を討つことに邁進したといいます。
1193年(建久4年)、源頼朝は富士裾野で大規模な巻狩りを行いました。
曽我兄弟は、その際に仇討ちを決行し、見事に工藤祐経を討ちました。
しかし、兄十郎祐成は仁田忠常に斬られ、弟十郎時致は御所五郎丸に捕らえられたのち、斬られたといいます。
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