別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2010年12月13日月曜日

神武寺の煤払い~本尊薬師如来開扉特別拝観:逗子市沼間~

逗子市沼間にある天台宗の古刹神武寺の本尊薬師三尊像は、

逗子市の重要文化財に指定されているもので、33年に一度開帳されるという秘仏ですが、毎年12月13日の煤払いの日にも特別に拝観することができます。


JR横須賀線「東逗子駅」から・・・
池子方面の坂を歩いていくと神武寺の入口があります。
京急の「神武寺駅」方面からの入口もあります。
ここからは山登りです。

参道の途中にあるお地蔵様。
隣の石柱は三浦札所第一霊場と表示しています。

山寺という感じの参道を進みます。

総 門
10分ほど山登りをすると門が見えてきます。

何とも説明ができないのですが、かなり印象にのこる門です。

総門を過ぎるとこのような切通があります。
この奥が本堂と庫裡になります。
普段は入れないのですが、本日は入ることができました。

本 堂
阿弥陀三尊が安置されています。

凝灰岩の岩に囲まれたこの寺の雰囲気は、まさに霊場という感じです。
「神」と「武」という字に何故か身も心も引き締まります。

鐘 楼
本堂から石段を上がると鐘楼があります。
「神武寺の晩鐘」は逗子八景の一つに数えられています。

この六地蔵と観音像の左手の石段を上がると薬師堂です。

楼門の先が特別拝観の薬師堂です。

朱塗りの楼門

薬師堂
薬師堂は神奈川県の重要文化財に指定されている建物です。
本尊の薬師三尊像は行基の作と伝えられ、秘仏とされています。
したがって、普段はこの薬師堂の扉は閉ざされています。
写真で紹介することはできませんが、
薬師三尊や十二神将などの貴重な仏像にお会いすることができました。

薬師堂横の地蔵堂も開扉されていました。

薬師堂から眺めた本堂です。


神武寺
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/jinmuji-zusi.htm
鎌倉手帳
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉郡沼浜郷(逗子市沼間)の史跡巡り

逗子市の沼間という所は、平安時代の辞書『倭名類聚抄』にみえる「沼浜郷」という所です。「沼浜」が転訛して「沼間」となったといわれています。

平安時代、沼浜には源頼朝の父義朝の邸宅がありました。現在の法勝寺がある辺りだったといわれています。




JR横須賀線「東逗子駅」から、県道逗子横須賀線(24号線)を横須賀方面に歩いて五霊神社へと向かいます。

途中の沼間交番前交差点にはフェンスに囲まれた庚申塚があります。


五霊神社

五霊神社の創建年等の詳しいことはわかりませんが、源義朝が邸宅の鎮守として勧請した神社であるといわれています。


義朝の邸宅は、次に紹介する法勝寺辺りにあったといわれています。




五霊神社境内のイチョウの古木は、かなり遠くからもわかる大きな木です。

周辺の樹木とともに神奈川県の天然記念物に指定されています。


日蓮宗法勝寺の入口
法勝寺は、五霊神社前のJR横須賀線の踏切を渡ってすぐです。

法勝寺

この寺の辺りに源義朝の沼浜の邸宅(沼浜亭)があったといいます。

源頼朝の死後、北条政子は「鎌倉亀ヶ谷の義朝邸跡」に壽福寺を建立します。

そして、「沼浜の義朝邸」を亀ヶ谷に移し、壽福寺に与えたということです。


光照寺
源義朝の長男義平の菩提寺といわれている真言宗の寺です。






海宝院

海宝院の銅鐘は、北条早雲が三浦道寸の新井城を攻める際に、陣鐘として使ったと伝えられる銅鐘です。







神武寺


神武寺は、行基が開いたと伝えられる天台宗の古刹です。

源頼朝実朝が崇敬していた寺であることが『吾妻鏡』に記されています。



池子参道

表参道

総門

鐘楼

六地蔵

楼門



薬師堂

地蔵堂



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 源義朝最期の地

 源頼朝配流地

 歴史めぐり源頼朝


 鎌倉手帳


2010年12月12日日曜日

東国の主君「鎌倉殿」

東国の主君となった源頼朝は、「鎌倉殿」と呼ばれるようになります。


神護寺所蔵の源頼朝像

「鎌倉殿」源頼朝の務めは、

一、頼朝に従って戦功をあげた者の所領を安堵すること。
一、戦功に応じた恩賞を与えること。

です。

それがなければ、に従う者などいません。

富士川の合戦の後も大々的な論功行賞が行われたと『吾妻鏡』は伝えています。

未だ罪人の頼朝が本来このような事ができるはずもないのですが・・・。
朝廷に代わる支配者であることの大々的な宣言です。

1180年(治承4年)12月12日、頼朝の新邸には、侍所別当に任命された和田義盛をはじめとする御家人311人が出仕したと『吾妻鏡』に記されています。

(参考:武家の都鎌倉の誕生


~御家人~

御家人というのは、武士に従う従者=家人に「御」の字を付けたものです。

つまり、頼朝に従う家人を頼朝への敬意から「御」の字を付けて「御家人」と呼ぶようになりました。 

鎌倉殿の御家人になるということは、鎌倉殿への「忠誠と奉公」が要求されます。

一方、鎌倉殿は「所領安堵」と「新恩の支給」を義務としています。

鎌倉の新政権はこのような御恩と奉公の主従関係によって成り立っていました。

東国の武士が鎌倉殿頼朝に期待したのは、朝廷の下での侍大将ではなく、所領を安堵してくれて、争いが起こった場合には、公正な裁判を行ってくれる指導者だったということです。


~侍所の設置~

鎌倉殿と御家人の主従の関係は一応出来上がっても、やはり、全ての御家人を統制していかなければなりません。

そのため、新政権にいち早く設置されたのが侍所です。

侍所の別当(長官)には和田義盛が任命されました(1180年(治承4年)11月17日)。



源頼朝像
(国立博物館所蔵)

~支配者頼朝と年号~ 

頼朝の挙兵から約1年後、1181年(治承5年)7月、朝廷は年号を養和と改めました。
さらに翌年には寿永と改められています。

しかし、頼朝は、養和・寿永の年号を使用せず治承の年号を使用し続けました。これは朝廷の支配体制を認めないという強い意志表明です。

したがいまして、もし養和元年、あるいは、寿永元年という頼朝の文書があったとするなら、それは偽物というしかないのかもしれません。


頼朝が寿永の年号を用いたのは寿永2年からで、この年に何が行われたかというと、後白河法皇が頼朝に東海・東山両道に対する支配権を認めています。

これを「寿永二年十月宣旨」と言います。



鎌倉手帳
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義経の鎌倉凱旋を阻止した関所~金洗沢~

1185年(元暦2年)、壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした源義経は、平宗盛父子を護送し鎌倉に凱旋しようとします。

しかし、かねてより無断任官などの行状によって源頼朝の怒りをかっていたため、鎌倉に入ることを許されませんでした。

頼朝は、義経の鎌倉入りを阻止するために、金洗沢(江ノ電「七里ヶ浜駅」「鎌倉高校前駅」の間)に関所を設けたと伝えられています。


七里ヶ浜で江ノ電がすれ違う辺りが金洗沢と呼ばれていた所のようです。
『新編鎌倉志』には「黄金が掘られた所」と記されました。


 鎌倉手帳

2010年12月10日金曜日

富士川の戦いとは・・・


1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で目代の山木兼隆を討ち取った源頼朝は、相模国に向けて進軍します。

しかし、石橋山の戦いで敗北し、海路で安房国へと逃れました。

途中の海上で、偶然にも三浦義澄らと出会ったともいわれています。

房総半島で、千葉常胤上総介広常が従うと、畠山重忠らの武蔵国の武将もつぎつぎに従い、大軍をもって鎌倉入りを果たしました。




そして間もなく平維盛を総大将とする頼朝討伐の大軍が、駿河国まで迫ってきます。

さて、源頼朝の挙兵が都に到達したのはいつの事だったのでしょう。

頼朝が挙兵してからすぐに「頼朝討伐軍」が派遣されていたら、頼朝は大軍を率いて鎌倉に入ることができたのでしょうか。

都に頼朝挙兵の報が届いたのは9月の初めだと言われています。


右大臣九条兼実は日記『玉葉』に・・・

「謀叛の賊義朝の子で長年伊豆国に流罪とされていた者が、最近は悪事をこととし、知行国主の使者を攻撃したうえ、伊豆・駿河両国を横領してしまった。昔の平将門のように謀叛しようというのであろう」

と記されています。


9月5日、平維盛を総大将とする討伐軍が組織されます。

しかし、準備が進まず、9月22日にようやく福原を出発したといいます(当時、平清盛によって都が福原に遷されていました。)。

そして平安京の出発の時をめぐって、日が悪いとか、忌むとか忌まないとかの議論で7日間が費やされ、平安京を出発したのが9月末でした。


討伐軍が無駄な時間を費やしている間・・・、

◎ 源頼朝は房総で体勢を立て直した。
◎ 木曽義仲は信濃国で挙兵し信濃国を収め、上野国へ進出。
◎ 甲斐国の武田信義が甲斐国、信濃国の諏訪を征服。

という急展開をみせています。

全国の源氏に令旨を発した「以仁王の生存説」までが乱れ飛ぶようになっていました。


討伐軍は東に下るほどに確かな情報を入手するようになります。各国での謀叛は、討伐軍内部に大きな動揺をもたらしたことと思います。

また、実説とともに虚説まで飛び交っていたので、思うような徴兵ができず、糧食の調達もできない状況でした。
(この年はひでりによる凶作で食料不足だったといいます。)


そして、10月13日、駿河国入った討伐軍は、何とか富士川の西岸に布陣しますが、多くの者が寝返ったり、逃亡したりしてしまったようです。

もともと、士気が上がっていなかったのですから仕方ない事でしょうね。どうやら半数以下の兵数になってしまったようです。

こんな状況ですので、平維盛は撤退を決意していたといいます。

10月20日、すでに逃げる気持ちになっていた軍に襲いかかったのが「水鳥の飛び立つ音」でした。

「逃げの姿勢」の軍ですので「敵軍の夜襲」と勘違いすれば一気に逃げるでしょうなぁ~。

大将の無能ということがよくいわれますが、平維盛という人物がどうこうは別として、一所懸命の精神で戦う東国武士と、そんな苦労は一切関係なく育ったおぼっちゃまとでは、完全に違うと思いますし、おぼっちゃま方には、その行動の方法が全くわからなかったと思います。

これから世を変えようと考えている者と、苦労せずに、このまま我が儘の言える状態を放置しようとしている者との違いが大きかったでしょう。

のちの明治維新にも同じ事が言えるのかと思います。


(富士川の古戦場)

こんな事で、源頼朝は貴重な勝利を手にしています。

頼朝は勢いに乗って、逃げた平氏軍を追おとしますが、千葉常胤三浦義澄上総介広常らに、東国の地盤強化が先と反対されて思いとどまったと伝えられています。

その後、すぐに常陸国の佐竹氏を討ち、東国の地盤を固めていきます。


歴史めぐり源頼朝


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