1008年(寛弘5年)11月1日、
土御門殿では中宮・
藤原彰子が産んだ
一条天皇の第二皇子・
敦成親王の誕生五十日の祝いが行われました。
「五十日の祝い」(いかのいわい)は「松の餅」とも呼ばれ、生誕50日目の夜に父親又は祖父が餅を赤子の口に含ませる儀式。
几帳で仕切られた南面の廂の間には、
彰子と
敦成親王の御膳が供えられていました。
彰子の給仕役は宰相の君讃岐(
藤原豊子)。
敦成親王の給仕役は大納言の君(
源廉子)。
紫式部には、敦成親王の小さい御膳台やお皿などが雛遊びの道具のように見えたようです。
そして、禁色の着用を許された少輔の乳母が
敦成親王を抱き、御帳台の内で裳唐衣を着た
源倫子が抱きとります。
彰子は、葡萄染めの五重襲の袿に蘇芳の御小袿を着ていました。
祖父の
藤原道長は餅(もちい)を供しています。
※画像は越前市の
紫きぶ七橋のレリーフ。
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女房たちが、二列あるいは三列ずつにずらりと並んでいるところには酔っ払いも出現。
大納言の君・
宰相の君・
小少将の君・
宮の内侍といった彰子が信頼している女房たちのところへは・・・
右大臣の
藤原顕光が近寄って来て、御几帳の切れ目を引きちぎって、酔い乱れ、
「いい年をして」と批難されているにもかかわらず、女房の扇を取り上げて、みっともない冗談を言っていたらしい。
中宮大夫の
藤原斉信は、盃を持って、顕光の前に出て、催馬楽の美濃山を歌ったりして、酔っ払いを収めてしまったのだとか。
柱に寄り掛かって女房の衣の褄や袖口を数えて観察していたのは右大将の
藤原実資。
紫式部が声をかけてみると、今風ではなく、しっかりとした信念を持った立派な人だったのだとか。
左衛門督の
藤原公任は・・・
「失礼ですが、この辺に若紫はいらっしゃいますか」
と紫式部を探している様子。
「ここには
光源氏らしき人がいなのに、どうしてあの
紫の上(若紫)がいるだろうか・・・」
と思って聞き流したのだとか。
実は、これが文献上で
『源氏物語』が初めて登場した場面らしい(
📎藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日)。
道長に「盃を受けよ」と言われた三位亮の藤原実成は、父の内大臣・藤原公季に遠慮して前を通らず、下手から道長の前に出ました。
それを見た公季は感激して酔い泣きしたのだとか。
権中納言の
藤原隆家は、兵部のおもとの袖を引っ張っているし、
道長もふざけ声を出したりしたらしい。
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夜の酒宴で
道長の酔態ぶりを見た
紫式部と
宰相の君は、酒宴後、御帳の後ろに隠れますが・・・
道長に見つかり「和歌を一首詠めば許そう」と言われます。
紫式部が詠んだ歌が
「いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば」
道長の返歌は
「あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も 数へとりてむ」
あれほど酔っておられる状況でも、歌をいつも気にかけているのは立派なことと紫式部は思ったらしい。
※画像は越前市の
紫きぶ七橋のレリーフ。
越前市の
紫式部公園の
紫式部像にも、道長の前で紫式部が歌を詠む場面のレリーフがはめ込まれています。
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