別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年10月2日水曜日

円覚寺開山の無学祖元と鶴岡八幡宮の神


仏光国師(無学祖元)坐像


円覚寺を開いた無学祖元は宋から渡来した禅僧。

来日する前のある日こと。

いつものように坐禅を組んでいると、金色の龍と青い鳩を連れ、頭には冠をつけ笏を持った神のような人が現れ、日本に来て仏法を広めてほしいと頼んだのだといいます。

その後、祖元は北条時宗の招きで来日。

参拝した鶴岡八幡宮の楼門の梁にたくさんの鳩がいるのを見た祖元は、あの時の神が鶴岡八幡宮の神だったことをと悟ったのだそうです。

そして、円覚寺の開山塔正続院には、祖元が来日する際に、舟を守護していた龍が宿したという「宿竜池」と呼ばれる池があったのだとか。

このような伝説から「木造仏光国師坐像」の椅子には龍と鳩の彫刻があるのだと伝えられています。


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鳩は八幡神の使い。

鶴岡八幡宮楼門の掲額の八の字は、鳩で描かれています。


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円覚寺国宝梵鐘(洪鐘)は、無学祖元が来日する際に、舟を守護していた竜が宿したという宿竜池の底から金銅を得て鋳造されたのだと伝えられています。


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無学祖元が中国の宋から日本に来たときに、白鷺となった鶴岡八幡宮の神霊に導かれたのが総門前の白鷺池だったと伝えられています。




円覚寺開山忌


円覚寺


鶴岡八幡宮









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八代執権北条時宗


鎌倉五山

円覚寺舎利殿

鎌倉三名鐘

円覚寺の洪鐘


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2024年10月1日火曜日

鎌倉検定過去問~円覚寺開山忌~


開山をしのび、毎年10月3日に宋朝様式の古式ゆかしい法会が行われる寺院はどこか。


円覚寺の開山国師毎歳忌(開山忌)ではじめに一山の僧が集まって法会を行う場所はどこか。


円覚寺の開山国師毎歳忌(開山忌)で,開山像が輿に乗せられ,境内を巡堂するのは何年に一度か。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




円覚寺開山忌は10月3日。

一山の僧侶が無学祖元の塔所正続院舎利殿に集まり、法会が行われます。

仏殿でも盛大な盛大な法要が営まれ、4年に一度の閏年には、開山の「無学祖元像」が輿に乗せられ境内を巡堂します。


円覚寺舎利殿

舎利殿(しゃりでん)は正続院の昭堂。

鎌倉で唯一の国宝建造物。

源実朝が宋から請来したと伝えられる仏牙舎利が納められています。



開山木像

2024年は四年に一度の閏年の開山忌。




仏光国師(無学祖元)坐像


開山の無学祖元は、中国宋の禅僧。

八代執権北条時宗の招きにより来日し、建長寺に住しました。

のちに円覚寺の開山となり、北条氏をはじめとする鎌倉武士の教化に努め、我が国臨済宗の基礎を確立しました。

1286年(弘安9年)9月3日、建長寺で没し、仏光国師の号を賜わています。






鎌倉検定


円覚寺開山忌


円覚寺








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八代執権北条時宗


鎌倉五山

円覚寺舎利殿

鎌倉三名鐘

円覚寺の洪鐘


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2024年9月28日土曜日

源氏物語(光る君の物語)を冊子にした藤原彰子




『紫式部日記』によると・・・

1008年(寛弘5年)11月、出産のため土御門殿に里下がりしていた中宮藤原彰子は、出産後、内裏(一条院)への還御が近づくと・・・

一条天皇への手土産にするため、草子(冊子)作りを始めます。

紫式部が書いた『光る君の物語』=『源氏物語』を冊子にする作業だったと推測されています。

紫式部は、夜が明けると真っ先に彰子のもとに伺候。

色とりどりの紙をそろえて、それに物語の原本を添えて書写を依頼。

一方で書写されたものを綴じるという日々だったようです。

藤原道長

「子を産んだ女性が寒いのに・・・」

と言いながら、薄くすかれた和紙や筆、墨などを提供。

ついには硯までも持ってきたのだとか。



(光源氏と紫の上)

様々な説がありますが、光源氏の父・桐壺帝のモデルは一条天皇、母・桐壺更衣のモデルは藤原定子とも・・・

光源氏は敦康親王

そして、光源氏の最愛の妻・紫の上藤原彰子がモデルともいわれます。


📎藤原彰子は敦康親王が東宮になることを望んでいた!




紫式部


藤原道長

藤原彰子


一条天皇









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源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


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2024年9月20日金曜日

敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~


1008年(寛弘5年)11月1日、土御門殿では中宮・藤原彰子が産んだ一条天皇の第二皇子・敦成親王の誕生五十日の祝いが行われました。

「五十日の祝い」(いかのいわい)は「松の餅」とも呼ばれ、生誕50日目の夜に父親又は祖父が餅を赤子の口に含ませる儀式。





几帳で仕切られた南面の廂の間には、彰子敦成親王の御膳が供えられていました。

彰子の給仕役は宰相の君讃岐(藤原豊子)。

敦成親王の給仕役は大納言の君(源廉子)。

紫式部には、敦成親王の小さい御膳台やお皿などが雛遊びの道具のように見えたようです。

そして、禁色の着用を許された少輔の乳母が敦成親王を抱き、御帳台の内で裳唐衣を着た源倫子が抱きとります。

彰子は、葡萄染めの五重襲の袿に蘇芳の御小袿を着ていました。

祖父の藤原道長は餅(もちい)を供しています。


※画像は越前市の紫きぶ七橋のレリーフ。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


女房たちが、二列あるいは三列ずつにずらりと並んでいるところには酔っ払いも出現。

大納言の君宰相の君小少将の君宮の内侍といった彰子が信頼している女房たちのところへは・・・

右大臣の藤原顕光が近寄って来て、御几帳の切れ目を引きちぎって、酔い乱れ、

「いい年をして」と批難されているにもかかわらず、女房の扇を取り上げて、みっともない冗談を言っていたらしい。


中宮大夫の藤原斉信は、盃を持って、顕光の前に出て、催馬楽の美濃山を歌ったりして、酔っ払いを収めてしまったのだとか。


柱に寄り掛かって女房の衣の褄や袖口を数えて観察していたのは右大将の藤原実資

紫式部が声をかけてみると、今風ではなく、しっかりとした信念を持った立派な人だったのだとか。


左衛門督の藤原公任は・・・

「失礼ですが、この辺に若紫はいらっしゃいますか」

と紫式部を探している様子。

「ここには光源氏らしき人がいなのに、どうしてあの紫の上(若紫)がいるだろうか・・・」

と思って聞き流したのだとか。

実は、これが文献上で『源氏物語』が初めて登場した場面らしい(📎藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日)。


道長に「盃を受けよ」と言われた三位亮の藤原実成は、父の内大臣・藤原公季に遠慮して前を通らず、下手から道長の前に出ました。

それを見た公季は感激して酔い泣きしたのだとか。


権中納言の藤原隆家は、兵部のおもとの袖を引っ張っているし、道長もふざけ声を出したりしたらしい。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




夜の酒宴で道長の酔態ぶりを見た紫式部宰相の君は、酒宴後、御帳の後ろに隠れますが・・・

道長に見つかり「和歌を一首詠めば許そう」と言われます。


紫式部が詠んだ歌が

「いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば」

道長の返歌は

「あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も 数へとりてむ」


あれほど酔っておられる状況でも、歌をいつも気にかけているのは立派なことと紫式部は思ったらしい。


※画像は越前市の紫きぶ七橋のレリーフ。



越前市の紫式部公園紫式部像にも、道長の前で紫式部が歌を詠む場面のレリーフがはめ込まれています。




紫式部


藤原道長

藤原彰子


一条天皇









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