1008年(寛弘5年)7月16日、一条天皇の中宮・藤原彰子は出産のため土御門殿に里下がり。
『紫式部日記』によると・・・
秋が深まってきた土御門殿は、池のほとりの木々の梢や遣水のほとりの草むらが色づき、そこら一帯の空も優美。
その中で彰子の安産を祈る僧の読経の声が響き渡り、夜になると涼しい風のそよめきに遣水のせせらぎの音が読経の声と溶け合って聞こえていたのだとか。
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『紫式部日記』には、彰子の安産祈願のための「五壇の御修法」も描かれています。
「五壇の御修法」は五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)を東・南・西・北・中央の五壇に祭って行う密教の修法。
後夜の鉦(午前4時頃)が響き渡り、勤行が始まります。
われもわれもと、競い声を上げている伴僧の声々が、遠くからまた近くから、絶え間なく聞こえてくるのは、まことに荘厳で尊く・・・
観音院の僧正が東の対から彰子の寝殿へと二十人の伴僧を率いていくときに、渡り廊下の床板がどんどんと踏み鳴らされる音さえも、他のときとは違う雰囲気だったのだとか。
また、法性寺の座主や浄土寺の僧都が揃いの浄衣姿で、いくつもの唐橋を渡りながら、木々の間をわけ入って帰っていく様子も、遠くまで眺めやっていたい感じがしてしみじみと感慨深かったようです。
斉祇の阿闍梨(藤原道綱の次男)が大威徳明王を礼拝している様子も描かれています。
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大雲寺は、紫式部の曾祖父・藤原文範が開基の寺。
『紫式部日記』に登場する観音院は冷泉天皇の皇后・昌子内親王が創建した大雲院の子院でした。
『源氏物語』(若紫の巻)で、光源氏と紫の上が出会った北山の「なにがし寺」は、大雲寺がモデルともいわれています。
法性寺は藤原忠平創建の寺院。
藤原氏の氏寺として栄え、花山天皇が寵愛した藤原忯子の四十九日法会が営まれています。
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