1008年(寛弘5年)初春、一条天皇の中宮・藤原彰子の懐妊が明らかになります。
『栄華物語』によると、一条天皇が懐妊に気づき、自ら藤原道長に報告したのだといいます。
ただ、懐妊が公表されたのは3月になってからのこと。
呪詛されることを恐れていたようです。
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4月13日、懐妊5か月となった彰子は土御門殿へ里下がり。
道長は4月23日から安産祈願のための「法華三十講」を催します。
法華三十講は法華経を1日に1巻ずつ講ずる法会。
そして、5月5日は三十講が最も盛り上がる5巻の講義が行われました。
当日は公卿のほとんどが参列。
紫式部は、5月5日と法華経5巻が重なった神秘的なことを歌にしています。
妙なりや
今日は五月の
五日とて
いつつの巻に
あへる御法も
📎妙なりや・・・
また、大納言の君(源廉子)との贈答では
かがり火の
影もさわがぬ
池水に
幾千代すまむ
法の光ぞ
(紫式部)
澄める池の
底まで照らす
かがり火に
まばゆきまでも
うきわが身かな
(大納言の君)
📎かがり火の・・・
翌朝にはの小少将の君が菖蒲の根を贈ってきたのだといいます。
なべて世の
うきになかるる
あやめ草
今日までかかる
ねはいかが見る
(小少将の君)
なにごとと
あやめはわかで
今日もなほ
たもとにあまる
ねこそ絶えせね
(紫式部)
5月5日は端午の節句(菖蒲の節句)。
菖蒲の長い根を贈り合う風習があったのだとか。
📎菖蒲の歌・・・
法華三十講は5月22日に結願。
『栄華物語』によると道長は毎年5月に法華三十講を催していましたが、この年は例年の倍の参列があったのだといいます。
その後、彰子は一時、内裏に戻りますが、7月16日、再び土御門殿に里下がり。
9月11日に第二皇子の敦成親王を出産しました。
📎藤原彰子の懐妊・皇子出産と紫式部と源氏物語
(源氏物語ミュージアム模型)
『源氏物語』の主人公・光源氏が建設した六条院は、土御門殿がモデルともいわれる。
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彰子の懐妊の一方で、藤原定子が生んだ一条天皇の第二皇女・媄子内親王が5月25日に薨去(9歳)。
発病したのは正月のことだったらしい。
正月16日には、一条天皇の命により道長が供をして清水寺に参詣しているようですが・・・
4月には昏睡状態となります。
大雲寺の文慶が平癒の祈祷を行って回復しますが、法華三十講の結願の日に重篤となってしまったようです。
参考までに、媄子内親王の病状を回復させた文慶は、一条天皇の望みで阿闍梨から権律師に昇進しています。
『源氏物語』(若紫の巻)で、光源氏と紫の上が出会った北山の「なにがし寺」は、大雲寺がモデルともいわれています。
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