妹の藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の立太子に望みをかけていた藤原伊周。
しかし、敦康親王は藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子が養母となって育てられ、道長と彰子に取り込まれてしまい、伯父である伊周は後見・養育に関わることはできませんでした。
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このような状況の中の1007年(寛弘4年)8月、道長が御嶽詣(金峯山参詣)のため都を離れます(道長の御嶽詣)。
このとき都では「伊周が平致頼を抱き込んで道長暗殺を企てている」という噂がたったのだと伝えられています。
噂の真偽は不明ですが、翌1008年(寛弘5年)正月、伊周は准大臣(大臣に准ずる待遇)となっているので道長と表だった確執はなかったようです。
ただ、この年の9月に彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産。
甥の敦康親王の立太子に望みをかけていた伊周にとっては大きな打撃となります。
12月には敦成親王の「百日の儀」が開かれますが・・・
伊周は公卿が詠んだ和歌の序題を書こうとしていた藤原行成の筆を取り上げ、自作の和歌序を書いたのだとか。
その内容は敦成親王は第二皇子であることを強調したものでしたが、この挙動は人々から非難されることになってしまいます。
そして起こったのが、1009年(寛弘6年)正月の道長・彰子・敦成親王に対する呪詛事件。
犯人は伊周の叔母・高階光子と伊周の家人・源方理だったようですが、二人は官位を剝奪され、伊周は公務を停止されてしまいます。
6月には許された伊周ですが、1010年(寛弘7年)正月28日死去(37歳)。
『栄花物語』によると死因は飲水病(糖尿病)だったようです。
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1011年(寛弘8年)6月13日、病が重くなった一条天皇は居貞親王(三条天皇)に譲位、6月22日に崩御しました。
一条天皇は、敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいましたが、藤原行成に説得されて敦成親王を皇太子にすることとしたのだといわれています。
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