別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




2024年8月18日日曜日

紫式部の先祖:藤原高藤・宮道列子と源氏物語


藤原高藤は平安時代前期の公卿。

妻の宮道列子は中下級貴族の宮道弥益の娘。

紫式部は、この二人の子孫にあたります。

左大臣源雅信の正妻藤原穆子倫子の母)や紫式部の夫藤原宣孝も子孫。

『源氏物語』~明石の巻~では、光源氏明石入道の娘明石の君との恋が描かれていますが、高藤と列子の恋を参考に描かれたといわれています。


『今昔物語集』によると・・・

ある時、南山科へ鷹狩に出かけた高藤は、突然の雨にあい、宮道弥益の屋敷で雨宿り。

弥益邸に一泊することとなった高藤は、弥益の娘・列子に一目ぼれし、一夜の契りを結びます。

しかし・・・

翌日、鷹狩から帰えると、心配して待っていた父・藤原良門に激怒され、鷹狩を禁じられてしまいます。

高藤と列子は会うことも連絡をとることもできずに月日が流れました。

やがて父も亡くなり、6年後になって弥益の屋敷を訪れると・・・

列子は高藤の子(女の子)を産んでいました。

心打たれた高藤は列子と結婚し、自分の屋敷に連れて帰ったのだとか・・・

列子が産んだ女の子は、のちに醍醐天皇の母となる胤子。


『源氏物語』~明石の巻~では・・・

光源氏を明石に迎えた明石入道は、娘の明石の君を光源氏に引き合わせます。

やがて明石の君は懐妊。

しかし、光源氏は都へ戻ることに。

その後、明石の君と生まれた子(明石の姫君)は光源氏に誘われて上京。

明石の姫君は紫の上の養女となって育てられ、11歳の時に裳着を行い、東宮(のちの今上帝)に入内。

13歳で懐妊し、第一皇子を出産しました。


どちらの話も中下流階級の娘が貴公子の娘を産み、その娘が出世するというもの。



 
勧修寺は、醍醐天皇が母の藤原胤子の菩提を弔うため、宮道弥益の邸宅跡に創建させた寺。

寺名は、高藤の諡号からのもの。



藤原高藤と小野篁と百鬼夜行










☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


よりともジャパン.com


源氏物語を書き始めた紫式部


(石山寺)


『石山寺縁起絵巻』によると・・・

1004年(寛弘元年)、石山寺に参籠したという紫式部

8月15日、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て『源氏物語』を書き始めたのだと伝えられています。

石山寺で書かれたのは「須磨・明石の巻」だったのだとか。

須磨は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルのひとりとされる在原行平が蟄居した地。


『源氏物語』は、1004年(寛弘元年)以前に書き始められたという説もありますが・・・

いずれにしても紫式部は、『源氏物語』がきっかけで藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えることとなります。




越前市の紫式部公園には、紫式部が中宮・藤原彰子に仕えるようになったときに詠んだ

「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」

歌碑が建てられています。




石山寺は、聖武天皇の勅願によって東大寺良弁が開いた観音霊場。

藤原道綱母の『蜻蛉日記』・赤染衛門の『赤染衛門集』・和泉式部は『和泉式部日記』・菅原孝標女の『更級日記』にも登場します。

清少納言は『枕草子』に「寺は石山寺・仏は如意輪観音」と綴りました。



明王院には「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」が設置されています。



世尊院では「源氏物語 恋するもののあはれ展」が開催されています。



琵琶湖で紫式部・源氏物語


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子



よりともジャパン.com


源明子が住んだ高松殿~高松神明神社~




高松神明神社は、源明子の父・源高明が御殿の高松殿の鎮守として伊勢神宮を勧請した社。

藤原道長と結婚した明子は、ここに住んで高松殿と呼ばれていました。


高松殿は三条天皇の皇子・小一条院(敦明親王)の御所ともなりますが・・・

伝説によると・・・

左大臣・藤原顕光の次女で三条天皇の第一皇子・敦明親王の妃となった藤原延子は、敦明親王とともに堀河殿に住んでいました。

しかし・・・

敦明親王は、藤原道長が三女の寛子を嫁がせると堀河殿を出て高松殿へ移ってしまいます。

延子は、悲嘆のあまりに病に伏し、1019年(寛仁3年)に亡くなってしまいました。

2年後の1021年(治安元年)には、藤原顕光が薨去。

二人の死後に起こったのが道長の娘たちの死。

1025年(万寿2年)、延子から敦明親王を奪った藤原寛子が病死。

同年、六女で敦良親王(のちの後朱雀天皇)の妃・藤原嬉子が出産直後に急死。

敦良親王は、敦明親王が東宮(皇太子)を辞退したことで、東宮となっていました。

1027年(万寿4年)、次女で三条天皇の中宮だった藤原妍子が崩御。

道長の娘たちの死は、顕光と延子の怨霊の祟りと恐れられたのだといいます。












☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏

琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



よりともジャパン.com


源頼朝、読経を伊豆山の法音に代行してもらう~源氏再興の挙兵!~


1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れた源頼朝は、翌年、伊豆流罪となりました。

日々の読経をおこたらず、父・源義朝や鎌田政長らを弔いながら日々を送っていたそうです。

そして、1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵

目代の山木兼隆を討ったのですが・・・

これから相模国へ進軍しなければなりません。

そうすると続けてきた読経がおろそかになってしまいます。


8月18日、北条政子は、伊豆山権現の尼・法音に読経の代行してもらうことを勧めます。

法音は、政子の経の師でした。

頼朝が目録を法音に提出すると、法音は快諾したのだそうです。



伊豆山神社
(熱海)

伊豆山神社は、伊豆山権現・走湯権現とも呼ばれ、伊豆の流人だった頼朝が源氏再興を祈願した社。

若き日の頼朝政子が忍び逢う場所でもあったといいます。



源義朝の墓
(愛知県美浜町・野間大坊)

頼朝の父義朝は、平治の乱後、尾張国野間で家臣の長田忠致の裏切りあい最期を遂げました。

野間大坊には義朝の墓が建てられています。




伊豆山神社

箱根神社

三嶋大社


源頼朝挙兵

山木館襲撃~源頼朝の挙兵~







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~

熱海と源頼朝の伝説


歴史めぐり源頼朝


よりともジャパン.com


検索

Translate