大河ドラマ「光る君へ」の最終回では、藤原道長が最期を迎える時、紫式部は道長に「戦のない泰平の世を護られました」と語っていました。
ただ、最後の言葉は「嵐がくるわ」でした。
1027年(万寿4年)12月4日、道長が薨去すると、翌年、東国では平忠常が反乱を起こします(平忠常の乱)。
忠常は高望王流桓武平氏。
「光る君へ」に登場した双寿丸が仕えた平為賢と同族。
東国で「新皇」を称して反乱を起こし、940年(天慶3年)に平貞盛と藤原秀郷らに討ち取られた平将門の孫。
将門以来の大規模な反乱となった平忠常の乱は、摂関政治を終わらせるきっかけとなります。
これは、道長の時代に起こった刀伊の入寇での朝廷の無策と、活躍した武者(のちの武士)たちの恩賞が不十分であった事が原因の一つと考えられています。
平忠常の乱を鎮めたのは、経基流清和源氏の一流河内源氏の祖源頼信。
頼信は、道長四天王の一人でした。
1051年(永承6年)には、陸奥国で勢力を広げていた安倍頼良と陸奥守・藤原登任の間で戦いが起こりますが、この反乱を鎮めたのは、河内源氏二代棟梁の頼義とその子義家(前九年の役)。
義家は、その後の後三年の役(1183-1087)でも活躍しますが、朝廷は私闘と判断して恩賞を与えなかったたため、義家は従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて「武神」と称えられています。
そして、1086年(応徳2年)、白河上皇が院政を開始し、200年以上続いた摂関政治が終わります。
ただ、院政期に特別な扱いを受けたのは、東国の反乱に活躍した河内源氏ではなく、伊勢平氏でした。
伊勢平氏も高望王流桓武平氏。
伊勢国を拠点とした一族ですが、地盤を築いたのは道長四天王の一人だった平維衡。
そして、子孫の平清盛が1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝を倒したことで源氏は没落し、平氏の勢力が拡大されます。
清盛は、後白河院政下で武士としては初めてとなる太政大臣となり、さらに我が国初の武家政権を樹立しました。
それは源頼朝の武家政権へと繋がっていくことになります。
参考までに・・・
頼朝は、平忠常の乱を鎮圧した源頼信から数えて七代目。
平治の乱後、頼朝は処刑される運命にありましたが、それを救ったのが清盛の継母池禅尼でした。
池禅尼は刀伊の入寇で活躍した藤原隆家の子孫。
頼朝とともに鎌倉に武家政権を創った北条時政・政子・義時は、高望王流桓武平氏の平直方の子孫といわれています。
頼朝の源氏再興の挙兵を援けた房総半島の千葉常胤や上総広常は、平忠常の子孫でした。
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