1008年(寛弘5年)9月15日、敦成親王(後一条天皇)の御産養(祝宴)で紫式部は、祝賀の歌を詠みました。
めづらしき
光さしそふ
さかづきは
もちながらこそ
ちよもめぐらめ
(若宮の誕生で新しい光が射した盃は、望月(満月)と同じように欠けることなく、人々の手から手へと千年もめぐることでしょう)
そして10年後の1018年(寛仁2年)10月16日、後一条天皇は藤原道長の四女威子を中宮とします。
その祝宴の席で道長は
この世をば
わが世とぞ思ふ
望月の
かけたることも
なしと思へば
と詠みました。
(満月に欠けるものがないように、この世で自分の思うようにならないものはない)
望月の歌と呼ばれるこの歌は、道長が自分の栄華を詠んだ歌と言われますが、実は・・・
「この世をば わが世とぞ思ふ」の「世」は「夜」のことで、「栄華を極めた道長の世」という意味ではなく、
さらに、自分の栄華を望月(満月)に例えたのではなく、「娘を満月に例えて詠んだ」という説があるようです。
だとすると・・・
紫式部は「後一条天皇の誕生を祝う盃は満月のように欠けることはない」と詠み、道長は「娘は欠けるもののない満月のようだ」と詠んだということに。
道長の望月の歌は、紫式部の望月の歌を真似たものだったという説もあるようです。
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