別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2019年8月4日日曜日

鎌倉検定:大姫の入内を考えた源頼朝

源頼朝はその晩年、娘の[ 大姫 ]を入内させようと、朝廷の有力者を介して働きかけていたが、娘が若くしてなくなったので、入内は実現しなかった。亀ヶ谷坂の扇ガ谷側の入口にある地蔵堂には[ 大姫 ]の守り本尊と伝えられる[ 岩船 ]地蔵が安置されている。

第6回鎌倉検定1級


1195年(建久6年)、源頼朝は、妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴って上洛します。

南都東大寺大仏殿落慶供養に出席するための上洛ですが、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったともいわれています。

当時、大姫は17歳前後。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~九条兼実の失脚~

頼朝は、これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営してきました。

特に、後白河法皇亡き後、頼朝が征夷大将軍に任ぜられたのは、兼実の力によるものでした。

しかし、この上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っています。

頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことは、兼実の失脚に繋がりました。

そして、1196年(建久7年)の政変では、兼実は関白を罷免され、弟の慈円も天台座主の地位を奪われることになります。

この政変について頼朝も知っていたとする説があります。

兼実が関白を罷免された後、京都では、「兼実邸に出入りする者は頼朝のお咎めを受ける」という噂が流れたともいいます。

頼朝の行動は、親幕派の兼実を失脚させ、反幕派の通親の権力を増大させてしまいました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~大姫の死~

1197年(建久8年)7月14日、大姫がこの世を去ります。

おそらく20歳前後だったのでしょう。

大姫の死によって頼朝の夢は絶たれました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~『吾妻鏡』の欠落~

『吾妻鏡』は、九条兼実が失脚した1196年(建久7年)正月から、頼朝が亡くなる1199年(正治元年)正月までの約3カ年の記事を欠いています。

『吾妻鏡』の愛読者だった徳川家康が、「英雄の最期をはばかって削除させた」という噂もあったようですが・・・

この間には、大姫の死、頼朝の死に関わる重大な記事が載せられていたものと思われます。

やはり、頼朝の名誉のため、家康が抹消してくれたのでしょうか?



 岩船地蔵堂

亀ヶ谷坂の入口にある岩船地蔵堂には、大姫の守り本尊といわれる石地蔵尊が安置されています。

ただ、岩船地蔵堂は、大姫の妹乙姫(三幡)の墳墓堂ではないかという説もあります。



 鎌倉検定






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 南都焼討と東大寺の再興


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