別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年6月24日金曜日

源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府

源頼朝は、1180年(治承4年)10月6日、畠山重忠を先陣に本拠と定めた鎌倉に入りました。


『吾妻鏡』によれば・・・

石橋山の合戦で敗れ、安房で再起を掛けようとしていた頼朝に、

「安房は要害の地ではなく、源家に縁の地でもない」

といって鎌倉入りを進言したのは千葉常胤だったといいます。


元八幡
頼朝の先祖源頼義が、
1063年(康平6年)、石清水八幡宮を勧請し創建しました。
https://www.yoritomo-japan.com/page135motohatiman.htm


鎌倉に入った頼朝は、その日は民家に泊まり、翌10月7日には鶴岡若宮(元八幡)を遙拝し、父義朝の亀谷の館跡を訪れています。

頼朝は、義朝の館跡に新亭を建てるよう命じていますが、新造するには狭く、岡崎義実義朝を弔うために建てた祠があったことから、取り止めにしています。


壽福寺
頼朝の父義朝の屋敷はこの辺りにあったといわれています。
義朝の屋敷からの六浦道沿いには、
窟堂荏柄天神社杉本寺という寺社が並んでいます。
これらは、頼朝が鎌倉に入る前からあったもので、
六浦道はこのころから整備されていたものと考えられます。
また、義朝の屋敷は沼浜(参考:法勝寺)にもあったということですので、
鎌倉は古くから房総を望む拠点であったということなのでしょう。


頼朝の新亭造営は、10月9日、大庭景義を奉行として工事が始められました。

まずは、新造の建物ではなく、山ノ内にあった首藤兼道の旧宅が移築されています。

安倍晴明の護符の御加護で「200年もの間火災にも遭わずにいた」ということから移築されたという伝説が残されていますが・・・

最大の理由は、頼朝の宿所を早急に整える必要があったからなのではないでしょうか・・・。

(参考:陰陽師安倍晴明の伝説~鎌倉:山ノ内~


大倉幕府跡
現在の清泉小学校のある辺り一帯が頼朝の邸宅があった場所です。
大倉幕府と呼ばれるのは、
頼朝が邸宅で政治を行ったためです。
https://www.yoritomo-japan.com/page041ookura-bakufu.htm


10月10日、政子が到着し、この日は稲瀬川付近の民家に泊まり、翌11日、鎌倉入りしました。

10月15日、首藤兼道邸の移築が完了し、頼朝は新亭に入りました。

(※『吾妻鏡』には、「鎌倉の御亭に入る」と記されていますが、その場所がどこなのかは定かではありません。)


稲瀬川
政子は、
日の調整のためこの辺りの民家に滞在したといいます。
https://www.yoritomo-japan.com/page136inasegawa.htm


12月12日には、新造の建物も完成しました。

新造の御亭も大庭景義の奉行によって進められたことが『吾妻鏡』には記されています。

「10月事始有り」との記述もあることから、首藤邸の移築工事と併行して新造建物の建築も行われていたものと考えられています。

新造の御亭は、寝殿造で侍所の建物も造られていました。



~御移徒の儀~

頼朝が新亭に入った12月12日には、「御移徒の儀」が執り行われています。

上総広常邸を発った頼朝は、和田義盛の先導で新亭に向かいます。

政子の駕には加々美長清、毛呂季光が付き添い、北条時政北条義時足利義兼千葉常胤安達盛長土肥実平岡崎義実などが供奉し、畠山重忠が最後尾を務めたといいます。

新亭に入った頼朝は寝殿に上がり、御家人は侍所に対座します。中央に位置するのは侍所別当の和田義盛でした。

この日、新亭に出仕した御家人は、311人と伝えられています。

『吾妻鏡』はこの日の記事で、頼朝を「鎌倉の主となす」と記しています。


頼朝が新亭に入ったこの日が、武家政権都市「鎌倉」の誕生の日とする説もあります。

そして、この新亭がのちに大倉幕府と呼ばれるようになります。



(参考:源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~



鶴岡八幡宮
頼朝は新亭造営とともに鶴岡八幡宮を現在の地に遷し、
その整備も併行して進めています。
https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm


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