別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2010年12月12日日曜日

東国の主君「鎌倉殿」

東国の主君となった源頼朝は、「鎌倉殿」と呼ばれるようになります。


神護寺所蔵の源頼朝像

「鎌倉殿」源頼朝の務めは、

一、頼朝に従って戦功をあげた者の所領を安堵すること。
一、戦功に応じた恩賞を与えること。

です。

それがなければ、に従う者などいません。

富士川の合戦の後も大々的な論功行賞が行われたと『吾妻鏡』は伝えています。

未だ罪人の頼朝が本来このような事ができるはずもないのですが・・・。
朝廷に代わる支配者であることの大々的な宣言です。

1180年(治承4年)12月12日、頼朝の新邸には、侍所別当に任命された和田義盛をはじめとする御家人311人が出仕したと『吾妻鏡』に記されています。

(参考:武家の都鎌倉の誕生


~御家人~

御家人というのは、武士に従う従者=家人に「御」の字を付けたものです。

つまり、頼朝に従う家人を頼朝への敬意から「御」の字を付けて「御家人」と呼ぶようになりました。 

鎌倉殿の御家人になるということは、鎌倉殿への「忠誠と奉公」が要求されます。

一方、鎌倉殿は「所領安堵」と「新恩の支給」を義務としています。

鎌倉の新政権はこのような御恩と奉公の主従関係によって成り立っていました。

東国の武士が鎌倉殿頼朝に期待したのは、朝廷の下での侍大将ではなく、所領を安堵してくれて、争いが起こった場合には、公正な裁判を行ってくれる指導者だったということです。


~侍所の設置~

鎌倉殿と御家人の主従の関係は一応出来上がっても、やはり、全ての御家人を統制していかなければなりません。

そのため、新政権にいち早く設置されたのが侍所です。

侍所の別当(長官)には和田義盛が任命されました(1180年(治承4年)11月17日)。



源頼朝像
(国立博物館所蔵)

~支配者頼朝と年号~ 

頼朝の挙兵から約1年後、1181年(治承5年)7月、朝廷は年号を養和と改めました。
さらに翌年には寿永と改められています。

しかし、頼朝は、養和・寿永の年号を使用せず治承の年号を使用し続けました。これは朝廷の支配体制を認めないという強い意志表明です。

したがいまして、もし養和元年、あるいは、寿永元年という頼朝の文書があったとするなら、それは偽物というしかないのかもしれません。


頼朝が寿永の年号を用いたのは寿永2年からで、この年に何が行われたかというと、後白河法皇が頼朝に東海・東山両道に対する支配権を認めています。

これを「寿永二年十月宣旨」と言います。



鎌倉手帳
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