鎌倉の大仏は、誰の発願で、いつ完成したのかは明らかではありません。
大仏のある高徳院についても、その開創については不明のようです。
稲多野局の笠塔婆
大仏を造ろうと思ったのは源頼朝だったともいいます。
頼朝は、1195年(建久6年)、奈良東大寺の大仏殿落慶供養に参列しています。
そのときに、「鎌倉にも大仏を・・・」と考えたとしてもおかしい事ではありません。
しかし、頼朝はその願いを果たせずにこの世を去りました。
頼朝の意志を受け継いだのが、侍女の稲多野局(いなだのつぼね)だったと伝えられています。
そして、三代執権北条泰時の時代に、四条天皇の許しを得た僧浄光が、諸国を勧進し、6年の歳月をかけて、庶民から一人一文の浄財を集めて建立されたのが、1243年(寛元元年)に完成した木製の大仏でした。
『吾妻鏡』には・・・
1238年(暦仁元年)3月23日、深沢の里で大仏の建立の工事が始まり、1243年(寛元元年)6月16日に大仏と大仏殿の落慶供養が行われたことが記されています。
しかし、1247年(宝治元年)、木製の大仏は台風で崩壊してしまったといいます。
その後、造られたのが現在の青銅製の大仏です。
1252年(建長4年)8月17日、青銅製の大仏の鋳造が開始されました。
時の執権は北条時頼ですが、時頼は大仏建立にどう関わっていたのかは不明です。
これだけの大仏ですから・・・
「関わっていなかった」ということはないのかと思うのですが・・・。
(建長寺もこの時期に創建されています・・・。)
その後の記録がないので、この青銅製の大仏がいつ完成したのかは判っていません。
もしかすると、鋳造開始から数十年後に完成したのかもしれません。
大仏の胎内に入るとその鋳造過程がなんとなくわかります。
かなりの高度な技術が使われ、鋳造は30回以上繰り返えされて行われたようです。
上品上生印
親指が人差し指の上に乗っていない変形の印です。
このため、この大仏には御堂ができないという説もあったようです。
極楽浄土を願う人の生前の行いによって定められた「九種類の往生のありさま」のことを「九品」(くほん)というそうです。
九種類というのは・・・
上品(上生・中生・下生)、中品(上生・中生・下生)、下品(上生・中生・下生)です。
大仏の周りには大仏殿の礎石が多数残されています。
現在の青銅製の大仏も、かつては大仏殿の中に安置されていました。
高さ40メートルにもなる巨大な大仏殿だったと伝えられています。
『太平記』や『鎌倉大日記』などの文献によれば、大仏殿は数度にわたって倒壊し、その都度再建されてきたようですが、1495年(明応4年)(1498年(明応7年)とも)の津波で倒壊して以後は再建されず、露坐の大仏となってしまいます。
鋳造された大仏には金箔が施されました。
大仏様のお顔をよ~くみると、少し金箔が残されています。
有名な「鎌倉大仏の歌」が刻まれています。
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」
鎌倉の大仏は、「釈迦如来」ではなく「阿弥陀如来」です。
しかし、『吾妻鏡』にも「釈迦如来像の鋳造を始める」と記されているようですので、この際、どちらでもよろしいですな。
鎌倉の大仏は、明治30年12月28日、国宝に指定されています。
文化財としての正式名称は「銅造阿弥陀如来坐像」です。
中国の宋朝様式の中にも日本風の意匠が認められる傑作とされています。
そして、発掘調査によって明らかとなった大仏殿の遺構は、国の指定史跡となっています。
大仏の背後に4枚の蓮弁が置かれています。
江戸中期の台座修復の際に、32枚の蓮弁を製作する予定だったのですが、完成したのは4枚のみだったそうだです。
総高(台座共) 13.35メートル
青銅仏身高 11.312メートル
重量(仏体) 121トン
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