南都焼討は、1180年(治承4年)12月28日、平清盛の五男・平重衡が東大寺や興福寺を焼き尽くした事件。
南都焼討の前年、重衡の父平清盛は、後白河法皇を幽閉し、娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ、平家による独裁政治を始めます。
清盛の行動は、貴族・寺社・武士からの反発を受け、全国的な反平家勢力の蜂起へとつながっていきました。
1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子・以仁王が諸国の源氏に平家打倒の令旨を発します。
以仁王は討たれてしまいますが、8月17日には伊豆の源頼朝が挙兵し、10月20日には富士川の戦いで平家軍を敗走させています。
以仁王の挙兵に味方した園城寺が頼朝にも味方するのではないと案じた清盛は、12月11日、五男の重衡に園城寺を攻めさせました。
園城寺は焼かれ、金堂以下の堂塔は、ほとんど灰となってしまったのだといいます(※被害の程度は資料によって異なります。)。
南都の東大寺や興福寺に対しては、なるべく和平的に解決しようとしていたようですが・・・
南都の大衆は、清盛が派遣した妹尾兼康の兵60余人の首を猿沢池に並べたのだとか。
『平家物語』は、これが南都攻撃につながったと伝えています。
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東大寺や興福寺を焼き尽くした平重衡は、1183年(寿永2年)2月7日、一ノ谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られてきます。
重衡の態度に感心した源頼朝は、工藤祐経に接待を命じ、侍女の千手前を仕えさせて重衡を客として厚遇したそうです。
しかし、1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、6月23日、木津川で斬首されました。
(鎌倉)
鎌倉の教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、頼朝が一族の冥福を祈るようにと重衡に与えたものと伝えられています。
(木津川)
木津川の安福寺の本尊・阿弥陀如来像は、重衡が最後に拝んだ引導仏と伝えられています。
(京都)
木津川で斬首された重衡の首は奈良の般若寺に晒されましたが、妻の藤原輔子は東大寺再興の大勧進だった重源に請うて首をもらい受け、捨てられていた胴体とともに日野の法界寺で荼毘に付し、灰塚(平重衡の墓)を築いて、骨は高野山に納めたのだと伝えられています。
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北円堂の諸仏は運慶が造立した南都焼討後の復興仏。
9月9日(火)から東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が開催されます。
南円堂の諸仏は運慶の父康慶が造立した南都焼討後の復興仏。
2025年9月9日から
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