源頼朝は、1159年(平治元年)、父義朝とともに戦った平治の乱に敗れ、父とともに東国に逃れようとしますが、途中で父とはぐれ、平家の兵に捕えられます。
(※父義朝は尾張で旧臣の長田忠致の裏切りに遭い殺害されています。)
頼朝の母は、熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前。
頼朝は三男でしたが、当時は、母の家柄が重んじられたため、当初より嫡子として扱われていました。
源氏の嫡流を平清盛が許すはずもなかったのですが、清盛は継母池禅尼の懇願により、頼朝を殺さず伊豆国へ流しました。
頼朝が流された地は、現在の伊豆の国市韮山にある蛭ヶ小島だったといわれています。
近くには、源氏再興の旗挙げの際に大きな力となってくれた北条時政の館もありました。
(蛭ヶ小島)
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蛭ヶ小島での頼朝は、乳母の一人であった比企尼や母の実家である熱田神宮大宮司の援助を受けて、比較的自由な暮らしをしていたものと考えられています。
側近には、比企尼の婿の安達盛長がいましたし、佐々木定綱や盛綱といった家臣もいました。
京都の情報も比企尼の甥三善康信から定期的に受けていたようです。
日々の生活は父義朝の菩提を弔ったり、狩りを楽しんだりという生活だったようです。
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~伊東祐親の娘八重姫との恋~
伊東祐親は、伊豆の豪族で頼朝の監視役だったといわれています。
祐親の四女八重姫と頼朝は、祐親が京に上っている間に結ばれ、一子千鶴丸まで授かります。
しかし、祐親は大いに怒り、千鶴丸を川に捨て、頼朝をも殺そうとしましたが、祐親の次男祐清からそのことを聞いた頼朝は、走湯権現へと逃れ、北条時政に匿ってもらったと伝えられています。
その後、八重姫は江間小四郎と結婚させられますが、すぐに伊東の館に戻ります。
そして頼朝を慕って北条館を訪ねるのですが、頼朝は時政の娘北条政子と結ばれていました。
悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたと伝えられています。
神護寺再興の訴えを起こしたことで後白河法皇の怒りに遭ったためといわれています。
伊豆の国市奈古谷にある毘沙門堂は文覚が草庵を結んだところといわれ、頼朝や文覚にまつわる伝説が残されています。
時は流れ、1179年(治承3年)、京都では平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、安徳天皇が皇位に就きました。
翌1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子以仁王は、皇位継承の望みを絶たれたことから、平氏追討の令旨を全国の源氏に発します。
頼朝のところには、頼朝の叔父である源行家のよって令旨が届けられたと伝えられています。
以仁王自身も源頼政とともに挙兵しましたが、平氏軍に追われ平等院の戦いで討死しました。
頼朝は、当初、様子を見守っていたようですが、平氏による源氏追討の動きが大きくなってきたことから、1180年(治承4年)8月17日、北条時政の協力を得て挙兵し、まずは目代の山木兼隆を討ち取ることに成功します。
そして、相模に進軍しますが、石橋山の戦いで、大庭景親、伊東祐親らの軍に敗れ、頼朝は山中に逃れて、8月28日に真鶴岬から海路安房へ逃れました。
安房に上陸した頼朝は、上総介広常や千葉常胤に参上を命じ、武田信義を味方に付けるべく北条時政を甲斐に派遣したと伝えられています。
武蔵国に入るころになると、葛西清重、足立遠元、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも参陣し、10月6日に鎌倉入りを果たしました。
石橋山の敗北からわずか40日余りでの快挙でした。
鎌倉を本拠としたのは、代々源氏にゆかりがあるとともに、三方を山で囲まれた天然の要害であったことが理由だといわれていますが、それを進言したのは千葉常胤だったといわれています。
一般的に鎌倉入りを進言したのは千葉常胤であるとされていますが・・・
逗子市池子と葉山町の鐙摺山には、源氏再興の旗挙げの3年前(1177年(治承元年))に、頼朝が密かに三浦を訪れているという伝説が残されています。
そのときすでに鎌倉を本拠とすべく偵察していたともいわれています 。
源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・~
三浦一族の進発~石橋山の戦い~
源頼朝の敗戦~石橋山の戦い~
源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~
源頼朝・・・真鶴から安房へ
伊豆の国市奈古谷にある毘沙門堂は文覚が草庵を結んだところといわれ、頼朝や文覚にまつわる伝説が残されています。
(文覚が草庵を結んだ場所)
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時は流れ、1179年(治承3年)、京都では平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、安徳天皇が皇位に就きました。
翌1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子以仁王は、皇位継承の望みを絶たれたことから、平氏追討の令旨を全国の源氏に発します。
頼朝のところには、頼朝の叔父である源行家のよって令旨が届けられたと伝えられています。
以仁王自身も源頼政とともに挙兵しましたが、平氏軍に追われ平等院の戦いで討死しました。
頼朝は、当初、様子を見守っていたようですが、平氏による源氏追討の動きが大きくなってきたことから、1180年(治承4年)8月17日、北条時政の協力を得て挙兵し、まずは目代の山木兼隆を討ち取ることに成功します。
(香山寺)
そして、相模に進軍しますが、石橋山の戦いで、大庭景親、伊東祐親らの軍に敗れ、頼朝は山中に逃れて、8月28日に真鶴岬から海路安房へ逃れました。
(小田原市)
(真鶴町・岩海岸)
安房に上陸した頼朝は、上総介広常や千葉常胤に参上を命じ、武田信義を味方に付けるべく北条時政を甲斐に派遣したと伝えられています。
武蔵国に入るころになると、葛西清重、足立遠元、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも参陣し、10月6日に鎌倉入りを果たしました。
石橋山の敗北からわずか40日余りでの快挙でした。
鎌倉を本拠としたのは、代々源氏にゆかりがあるとともに、三方を山で囲まれた天然の要害であったことが理由だといわれていますが、それを進言したのは千葉常胤だったといわれています。
(鋸南町)
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~逗子・葉山に残る頼朝の伝説~
一般的に鎌倉入りを進言したのは千葉常胤であるとされていますが・・・
逗子市池子と葉山町の鐙摺山には、源氏再興の旗挙げの3年前(1177年(治承元年))に、頼朝が密かに三浦を訪れているという伝説が残されています。
そのときすでに鎌倉を本拠とすべく偵察していたともいわれています 。
(葉山町)
(逗子市池子)
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『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵
源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃 源頼朝挙兵の日 |
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