思いのほか狭く、岡崎義実が建てたという義朝を祀る祠もあったことから、新亭を大倉の地とすることとしました。
(『吾妻鏡』には「大倉」と書かれていますが、「大蔵」と書く場合もあります。)
壽福寺(扇ヶ谷) https://www.yoritomo-japan.com/page137jyufukuji.htm |
当座の住まいとして、二百年もの間、焼けも壊れもせず残っていたという山ノ内の首藤兼道邸が移築されました。この建物は、安倍晴明の護符が貼られた建物だったと伝えられています。
新亭造営は、大庭景義の奉行によって進められ、12月12日、頼朝は新御所に移ったと伝えられています(「大倉御所」、のちに「大倉幕府」と呼ばれる。)。
(参考:源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~)
大倉御所には、1219年(承久元年)、三代将軍源実朝が暗殺されるまで幕府が置かれますが、同年12月24日の火災で全焼した後は再建されませんでした。
大倉幕府跡 https://www.yoritomo-japan.com/page041ookura-bakufu.htm |
大倉御所(大倉幕府)は、現在の清泉小学校のあたり一帯であったと考えられています。
御所には、東西南北の門があって、現在でも「西御門」・「東御門」という地名として残されています。
★西御門(にしみかど):
https://www.yoritomo-japan.com/timei/nisimikado.htm
★東御門(ひがしみかど):
https://www.yoritomo-japan.com/timei/higasimikado.htm
★南御門(みなみみかど):
https://www.yoritomo-japan.com/timei/minamimikado.htm