別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年9月7日日曜日

運慶展オリジナルカード~運慶 祈りの空間-興福寺北円堂~




2025年9月9日から11月30日まで、東京国立博物館で開催される特別展「運慶 祈りの空間-興福寺北円堂」では・・・

入場者全員に「運慶展オリジナルカード」が配布されます。

北円堂の戸張をもとにデザインされています。



鹿草木夾纈屛風

鹿草木夾纈屛風(しかくさきょうけちのびょうぶ)は正倉院の宝物。

北円堂の戸張は、これをモチーフにしたもの。




興福寺北円堂は、興福寺の開基藤原不比等の一周忌に創建されました。

1180年(治承4年)の南都焼討後の復興造仏を任されたのが運慶

本尊の弥勒如来坐像、肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作といわれる無著・世親菩薩立像は、1212年(建暦2年)に運慶が一門を率いて造立したもの。

もとは北円堂に安置されていたという中金堂の四天王立像も運慶作ではないかと考えられています。

「運慶 祈りの空間 興福寺北円堂」では、北円堂の弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像、中金堂の四天王像が展示され、鎌倉復興期の北円堂が再現されます。




運慶



2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


東京メトロオリジナル24時間券


運慶願経


興福寺北円堂

興福寺中金堂

興福寺南円堂


興福寺


南都焼討








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は運慶作!
東大寺南大門


東大寺


歴史めぐり源頼朝


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日蓮の龍ノ口法難と四条金吾・宿谷光則~収玄寺・光則寺~


収玄寺


四条金吾は、名越流の北条光時(江間光時)に仕えた武将。

本名は四条頼基。

熱心な日蓮信者だったことで知られています。

1271年(文永8年)9月12日、幕府や諸宗を批判したことで捕らえられた日蓮龍ノ口刑場へ護送されると、金吾は切腹覚悟で刑場へと向かったのだといいます。


収玄寺

長谷の収玄寺は金吾の屋敷跡に建てられた寺。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


龍ノ口法難では、弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則邸(現在の光則寺)の土牢に幽閉されました。


日朗の土牢

日蓮が日朗に送った『土牢御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれていて、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだといいます。



日蓮が赦免された1274年(文永11年)、日朗の監視役をしていた宿谷光則は自邸を寺としました。

それが光則寺

開山は日朗。

光則は、弟子の身を案ずる日蓮に感動して帰依したのだと伝えられています。





ぼたもち供養:龍口寺

ぼたもち供養:常栄寺








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


ご難ぼたもちの伝説

源頼朝の千羽鶴の放生会と桟敷の尼


鶴岡八幡宮例大祭

甘縄神明神社例大祭

面掛行列


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源頼朝が選んだ弓馬の達人22名


流鏑馬


1193年(建久4年)、源頼朝は、富士裾野の巻狩りに先立って那須野で巻狩りを催しました。

このとき頼朝は、弓馬術に優れた腹心の者22名を選んで弓箭を帯びさせました。

他の者は一万騎もいたそうですが、弓箭を帯びず勢子の役をしたのだそうです。

弓箭を帯びる→弓矢を携帯すること。

勢子→鳥獣を追い出す役。


22名に選ばれたのは・・・


★北条義時

北条時政の次男、北条政子の弟。


★武田信光

弓馬四天王の一人。

武田流流鏑馬の祖。


★小笠原長清

弓馬四天王の一人。

小笠原流流鏑馬の祖。


★里見義成

新田氏の祖新田義重の孫。


★小山朝光(結城朝光)

頼朝の乳母だった小山政光寒河尼の子。


★下河辺行平

小山氏の一族で頼朝からは「日本無双の弓取」と称賛された。


★三浦義連

源義経に従った一ノ谷の戦い鵯越の逆落し)で活躍。


★和田義盛

鎌倉幕府侍所別当


★千葉成胤

千葉常胤上総広常の孫。


★榛谷重朝

稲毛重成の弟、畠山重忠の従兄弟。


★諏訪盛澄

1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮流鏑馬で妙技を披露。


★藤沢清親

1193年(建久4年)の武蔵国入間野の鳥猟で百発百中の妙技を披露。


★佐々木盛綱

1180年(治承4年)の頼朝の挙兵で、加藤景廉とともに伊豆の目代山木兼隆を討ち取った。


★渋谷高重

渋谷重国の次男。


★葛西清重

豊島清元(清光)の三男。


★望月重義

弓馬四天王の一人・望月重隆の兄。


★梶原景季

梶原景時の長男。


★工藤行光

石橋山の戦い北条宗時とともに討死した工藤茂光の子。


★仁田忠常

平家追討で活躍。


★狩野宗茂

工藤茂光の子。


★宇佐美助茂

工藤祐経の弟。


★土屋義清

岡崎義実の子










☆ ☆ ☆ ☆ ☆


9月14日~16日は・・・
鶴岡八幡宮例大祭


鶴岡八幡宮神幸祭

鶴岡八幡宮例大祭流鏑馬


鶴岡八幡宮



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2025年9月6日土曜日

日蓮が護送された道~鎌倉(松葉ヶ谷)から片瀬(龍ノ口刑場)~




1271年(文永8年)9月12日、幕府や諸宗を批判した日蓮が捕らえられます(龍ノ口法難)。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


松葉ヶ谷の草庵で捕えられた日蓮は、裸馬に乗せられて龍ノ口刑場へと護送されたのだといいます。

大町の妙法寺安国論寺、材木座の長勝寺が松葉ヶ谷草庵のあった地とされていますが、何処にあったのかは特定されてはいません・・・

草庵を出た日蓮は大町大路を通って下馬へ。



下馬橋は、鶴岡八幡宮の参道若宮大路に架けられていた橋。

ここで日蓮は鶴岡八幡宮に向かって「法門のために霊験を現わしたまえ」と大音声で請願したといわれています。

下馬から長谷小路に入った日蓮は・・・


塔ノ辻の五輪塔

塔ノ辻から由比ヶ浜に出て、御霊神社の前を通って極楽寺切通を進んだと考えられています。

極楽寺切通を通ったとすると、忍性極楽寺前を通ることになりますが・・・

忍性は光明寺良忠らと日蓮を訴えたとも言われています。

極楽寺前では忍性に何か申したのでしょうか?


日蓮袈裟掛松

極楽寺切通を越えた日蓮は・・・

袈裟を血で汚すのは恐れ多いといって松の枝に掛けたのだといいます。

七里ヶ浜に出る手前には、日蓮袈裟掛松の碑が建てられています。




七里ヶ浜は、小動岬稲村ヶ崎との間の砂浜。

かつての旅人が打ち上げられた海藻の香りをかぎながら夢の鎌倉を目指した古道。

七里ヶ浜に出た日蓮は、小動岬から龍ノ口刑場へ連れていかれたのでしょう。

処刑されるはずでしたが・・・

江の島方面から光が発せられ、急に雷雨が激しくなり、役人の太刀が折れてしまったのだとか。

そのため、処刑は中止されたのだと伝えられています。




ぼたもち供養:龍口寺


ご難ぼたもちの伝説

源頼朝の千羽鶴の放生会と桟敷の尼


龍口寺








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


妙本寺祖師堂開帳

ぼたもち供養:常栄寺



鶴岡八幡宮例大祭


御霊神社例大祭


お十夜


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2025年9月5日金曜日

小笠原長清~小笠原流弓馬礼法の祖~




小笠原長清(おがさわらながきよ)は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。

甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜りました。

母は杉本義宗の娘(和田義盛の娘という説も。)。

妻は上総広常の娘。


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)10月19日、平家軍を迎え撃つため黄瀬川の宿所にいた源頼朝のもとに参陣しています。

それまでは平知盛の被官として京にいましたが、母の病気を理由に帰国を許してもらたのだそうです。

その後は、頼朝の御家人として活躍し、信濃守に任じられました(長清は信濃守護家小笠原家の祖)。

馬術・弓術に優れた才能を発揮し、海野幸氏・望月重隆・武田信光とともに弓馬四天王の一人に数えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1188年(文治4年)正月20日の二所詣や1193年(建久4年)5月の富士裾野の巻狩りに随行。


小笠原流流鏑馬

1193年(建久4年)8月16日の鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬では射手を務めました。


東大寺大仏殿・多聞天
(東大寺大仏殿)

1194年(建久5年)には、頼朝の命により東大寺大仏殿の多聞天像を造立負担をしています。

※現在の多聞天は長清の時代のものではありません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~頼朝死後の小笠原家~

子の長経は源頼家に仕えたことから、1203年(建仁3年)9月4日に処罰されますが(比企能員の変)、姉妹の大弐局は源実朝の養育係を務め、嫡男時長は1219年(承久元年)の三寅(のちの四代将軍藤原(九条)頼経)の鎌倉下向の随兵を務めています。

1221年(承久3年)6月の承久の乱では父子8人で活躍しました。









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9月14日~16日は・・・
鶴岡八幡宮例大祭


鶴岡八幡宮神幸祭

鶴岡八幡宮例大祭流鏑馬


鶴岡八幡宮



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