四条金吾は、名越流の北条光時(江間光時)に仕えた武将。
本名は四条頼基。
熱心な日蓮信者だったことで知られています。
1271年(文永8年)9月12日、幕府や諸宗を批判したことで捕らえられた日蓮が龍ノ口刑場へ護送されると、金吾は切腹覚悟で刑場へと向かったのだといいます。
長谷の収玄寺は金吾の屋敷跡に建てられた寺。
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龍ノ口法難では、弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則邸(現在の光則寺)の土牢に幽閉されました。
日蓮が日朗に送った『土牢御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれていて、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだといいます。
日蓮が赦免された1274年(文永11年)、日朗の監視役をしていた宿谷光則は自邸を寺としました。
それが光則寺。
開山は日朗。
光則は、弟子の身を案ずる日蓮に感動して帰依したのだと伝えられています。
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