別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2011年1月1日土曜日

初詣~江の島~

2011年(平成23年)
穏やかな正月を迎えました。


霊峰富士がきれいです。

江の島
https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm

鶴岡八幡宮鎌倉宮江島神社の三社を詣でることを「湘南三社詣」と呼ぶそうです。


江島神社の幟

青銅鳥居
江戸時代には江の島の象徴とされた青銅製の鳥居です。

https://www.yoritomo-japan.com/enosima-seidotorii.htm

竜宮城を模した瑞心門
https://www.yoritomo-japan.com/enosima-zuisinmon.htm



~江島神社~

奥津宮
岩屋本宮の御旅所として設けられた社です。

源頼朝の寄進と伝わる石鳥居
(参考:江の島と源頼朝と弁財天

中津宮(上之宮)
江戸時代には商人・芸人の信仰を集めました。

中津宮からの眺め

辺津宮(下之宮)
鎌倉幕府の三代将軍源実朝の命により、
鶴岡八幡宮の供僧良真が創建した伝えられています。
参考:聖天島


奉安殿
八臂弁財天と妙音弁財天が安置されています。
https://www.yoritomo-japan.com/enosima-benzaiten.htm


~八坂神社~

八坂神社は、江島神社の境内社です。
7月の天王祭では、
八坂神社の神輿と腰越の小動神社の神輿が海上渡御を行います。


~児玉神社~

日露戦争の旅順攻撃で活躍した児玉源太郎を祀る神社です。

~江の島大師~

平成5年に創建された真言宗の寺院です。
高さ6メートルの赤不動像で知られています。




鎌倉の初詣
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/hatumoude-kamakura.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

江の島詣と「初め弁天」

鎌倉十二所の「初め弁天」は、「鎌倉に入って最初の弁天さま」という意味でこう呼ばれているといいます。

江戸時代には、鎌倉は観光地として賑わいを見せはじめ、江の島詣が盛ん行われるようになると、旅人は金沢観光(横浜市)をしてから、朝夷奈峠を越えて鎌倉に入って来たそうです。


明王院裏山の尾根道を進んでいくと、
やがて鳥居が見えてきます。
その後ろに石の祠が置かれています。

初め弁天
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page042hajime-benten.htm

後方に置かれている祠。
こちらが昔の祠なのかもしれません。


鎌倉に入った旅人は、「初め弁天」を参詣した後、鎌倉の弁天様を巡り、最後に江の島の弁天様を参詣します。

そういった意味から、江の島の弁財天は「終り弁天」と呼ばれていました。


江の島の青銅鳥居
弁財天信仰で賑わいを見せていた江の島の象徴ともいわれた鳥居です。
現在の鳥居は1821年(文政4年)に再建されたものです。
銘文には、吉原の花魁(おいらん)「松葉屋の代々山」の名も刻まれています。

現在の鳥居の額は「江島大明神」ですが、
昔は「大弁財天」という額が掲げられていたそうです。


鎌倉手帳
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

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2010年12月30日木曜日

源頼朝の創建した寺社~鎌倉その他~

鶴岡八幡宮
1180年(治承4年)、鎌倉入りした源頼朝が最初に行ったことは、
由比若宮を現在地に遷座することでした。
https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm

補陀洛寺
1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として創建されます。
開山は怪僧といわれた文覚

江島神社辺津宮の泰安殿
1182年(寿永元年)、奥州藤原秀衡調伏のため、
文覚に命じて江の島に弁財天を勧請します。
https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm

勝長寿院跡
1185年(文治元年)、
義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立します。
https://www.yoritomo-japan.com/page042shotyojyuin.htm

銭洗弁財天宇賀福神社
「巳の年」である1185年(文治元年)の「巳の月」の「巳の日」の
夢のお告げによって、建立されました。
https://www.yoritomo-japan.com/page137zeniaraibenten.htm

法華堂跡
1189年(文治5年)、大倉幕府の背後に持仏堂が建てられます。
頼朝の死後、法華堂と称されました。

白山神社
1191年(建久2年)、
頼朝が京の鞍馬寺で賜った毘沙門天像を祀った毘沙門堂が、
そのはじまりと伝えられている神社です。

永福寺跡
1192年(建久3年)、
義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立されたと伝えられています。

佐助稲荷神社
蛭ヶ小島にいた頃、
夢に現れた「かくれ里の稲荷」のおかげで功を納めることができたとして、
建久年間(1190~1199年)、畠山重忠に命じて建立させました。

来迎寺(材木座)
1194年(建久5年)、
三浦大介義明の菩提を弔うために建立された能蔵寺を前身としています。




西御門にあった尼寺の太平寺は、源頼朝の命を助けてくれたという池禅尼の姪のために創建された寺が前身となったと伝えられています。


本覚寺のある場所は、源頼朝が幕府の鬼門除けに夷神を祀った夷堂があった所です。



浄光明寺は、源頼朝文覚に建てさせた堂をはじまりとするとも伝えられています。不動堂の不動明王像には、頼朝文覚の伝説も残されています。



東京品川区にある品川神社は、源頼朝が安房国の洲崎大明神の祭神を勧請して創建した神社と伝えられています。



葉山町の森戸大明神は、源頼朝が源氏再興の祈願をした三嶋大社の分霊を勧請して創建したと伝えられています。



横浜市金沢区の瀬戸神社は、社伝では源頼朝三嶋大社を勧請したと伝えられている神社です。
また、琵琶島弁財天は北条政子の勧請と伝わっています。
https://www.yoritomo-japan.com/kanazawa/seto-jinjya.htm


怪僧文覚と源頼朝~鎌倉:人物と歴史~



文覚という僧侶は、実在した人物ですが、かなり伝説的な人物として歴史上の各所に登場しています。

文覚は、もとは遠藤盛遠という北面の武士でしたが、19歳のときに突然出家します。

その理由は・・・

盛遠は、渡辺渡の妻袈裟御前に懸想します。

言い寄られて困った袈裟御前は、

「夫の寝所を盛遠に教えて、これを討つように促すと、自分が身代わりとなって殺された」

という話が残されています。

つまり、袈裟御前を殺してしまったことが出家の理由ということのようです。



~文覚の荒行~

『平家物語』には・・・

「藪の中で、あぶ・蚊などの毒虫に刺されながら8日間過ごした」とか、

「厳寒の中、那智の滝に打たれ息絶えてしまうが、天から降りてきた童子に助けられた」

という文覚の荒行の様子が描かれています。


文覚荒行像
(成就院・模造)


~源頼朝と文覚の出会い~

全国で修行を積んで京に戻った文覚は、京都高尾山で修行を続けていました。

荒れ果てていた神護寺の再興を思い立ちますが、後白河法皇に強訴したことにより伊豆国へ流されます。

そのとき、伊豆国の蛭ヶ小島には源氏の嫡流源頼朝が流されていました。

文覚は、その蛭ヶ小島からそう遠くない奈古谷に庵を結んだと伝えられています。


伊豆の国市毘沙門堂

伊豆の国市奈古谷の毘沙門堂は、伊豆に流された文覚が住んでいた場所と伝えられています。

毘沙門堂

毘沙門堂

文覚が伊豆国に流されたのは、1173年(承安3年)のことで、文覚は34歳、頼朝は26歳のときでした。


~伝説!頼朝の挙兵と文覚~

文覚との出会いからおよそ7年後、頼朝は源氏再興の挙兵をします。文覚はその前に赦免されていますので、頼朝挙兵の際に伊豆にいたかどうかは不明です。


『平家物語』では・・・

文覚は、謀叛を起こして全国を従えるように頼朝を促します。

一方、頼朝

「今は朝敵となっている身だから、それが許されなければ謀叛などできない」

ことを告げます。

すると文覚は、

「後白河法皇から院宣を給わり、頼朝のもとに持ってきた」

と伝えられています。

そして、頼朝はこの院宣を掲げて挙兵したと伝えていますが、実際は、以仁王の令旨を掲げての挙兵だったということでしょう。


文覚上人流宮之跡碑
(伊豆の国市毘沙門堂)

頼朝と政子の伝説が残る夫婦石
(伊豆の国市毘沙門堂)

護摩石
(伊豆の国市毘沙門堂)

毘沙門堂


~六代御前を助けた文覚~

1185年(文治元年)、長門壇ノ浦で平氏が滅亡します。
そのときに海に沈んだ平維盛には、六代御前と呼ばれた子がいました。

平清盛の曾孫(直系の子孫)ということで、京に潜んでいるところを北条時政によって捕らえられてしまいます。

そこに現れたのが文覚で、頼朝から助命の許しを得て神護寺で預かるととしました。

しかし、1199年(建久10年)、頼朝がこの世を去り、さらに文覚も佐渡国流罪となると、妙覚と名乗っていた六代御前も捕らえられ田越川(逗子市)で処刑されたと伝えられています。


六代御前の墓
(逗子市)

実際に、六代御前がいつ捕らえられ、どこで処刑されたかは不明です。

文覚は、佐渡国流罪後に許されますが、再び捕らえられ対馬国に流される途中に死んだと伝わっています(1205年(元久2年))。


~頼朝と文覚が創建した寺社~


補陀洛寺

補陀洛寺は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立されたと伝えられています。

文覚が開山です。


江の島弁財天

1182年(寿永元年)、源頼朝文覚に命じて江の島に弁財天を勧請しました。


~文覚上人屋敷跡碑~

文覚上人屋敷跡碑

滑川の大御堂橋の袂にある石碑です。

文覚の屋敷があったと伝えられ、この付近を流れる滑川は「坐禅川」と呼ばれていました。< 近くには源頼朝の三大寺院の一つ勝長寿院がありました。







☆ ☆ ☆ ☆ ☆


2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人


源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

奈良京都


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝


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2010年12月29日水曜日

上杉禅秀の乱と遊行寺の敵御方供養塔

遊行寺にある「敵御方供養塔」は、1416年(応永23年)に起こった上杉禅秀の乱で戦死した者を供養するために建立されました。

上杉禅秀の乱というのは、関東管領だった犬懸上杉家の禅秀(氏憲)による鎌倉公方足利持氏に対する反乱です。


 敵御方供養塔


銘文には・・・

南無阿弥陀佛
応永23年10月6日より兵乱、同24年に至る。
在々所々において、
敵御方箭刀水火のために落命せる人畜の亡魂、
皆悉く浄土に往生せしめん故なり。
この塔婆の前を通る僧も俗人も十念あるべき者なり。
応永25年10月6日


と記されています。

造立者は、ときの住職、太空上人と考えられています。

銘文にあるように、敵・味方の関係なく、軍馬の供養もしていることから、「平等供養塔」とも呼ばれています。

大正15年10月20日に国の史跡に指定されました。


 上杉禅秀邸跡
(鎌倉)

 遊行寺


 鎌倉手帳