別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2010年12月28日火曜日

竹の庭~報国寺~

報国建忠禅寺、通称「竹の寺」。

報国寺は、臨済宗建長寺派の寺院で、開基は足利家時足利尊氏の祖父)、開山は天岸慧広(仏乗禅師)と伝えられています。

竹の庭は、休耕庵(開山堂)の跡に造られた孟宗の竹林です。

竹林と滝を眺めながら抹茶が楽しめます。


木下利玄歌碑
「あるき来てものゝふ果てし岩穴の ひやけきからにいにしへおもほゆ」










このやぐらの中に開基の足利家時
永享の乱で自刃した足利義久の墓があるといわれています。
(義久は、四代鎌倉公方足利持氏の嫡男)



開山天岸慧広(仏乗禅師)の作庭といわれる石庭。







報国寺
https://www.yoritomo-japan.com/page042hokokuji.htm
竹の庭~鎌倉:報国寺~
https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/takeniwa.htm

鎌倉手帳


2010年12月27日月曜日

伝説!小栗判官~小栗満重の乱と遊行寺~

小栗家は桓武天皇を祖とする平氏と伝えられ「常陸国」を領していました。

1422年(応永29年)、14代城主小栗満重(小栗判官)は、第四代鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こします。

しかし、1423年(応永30年)8月2日、持氏との戦いに敗れ小栗城は落城してしまいます(小栗満重の乱)。


~小栗満重の乱~

1416年(応永23年)、上杉禅秀が足利持氏に対して起こした反乱(上杉禅秀の乱では、満重は上杉方に付きます。

戦後、足利持氏に従いますが、かなりの領地を没収されていたといいます。

「小栗満重の乱」は、その事に恨みをもった反乱と伝えられています。



時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の塔頭長生院には、小栗判官の伝説が伝えられています。


長生院のこの建物は「小栗堂」と呼ばれています。

足利持氏に対して謀叛を起こした小栗満重は、家来10人とともに落ち延びました。

そして、相模国の横山大膳の世話になります。

しかし、大膳は盗賊でした。

大膳は、満重主従に毒の酒を飲ませ財宝を奪おうとしますが、満重だけは大膳のもとにいた遊女の照手姫に助けられます。

(※いろんな伝説の中の一つとしてお読みください。)


満重は助けられた後、鬼鹿毛という荒馬で遊行寺に逃げ込み、遊行上人の助けによって三河に落ち延びました。

その後、悪人横山大膳を滅ぼしたのだと伝えられています。


~小栗堂の裏には・・・~

照手姫建立の厄除地蔵尊


照手姫の墓

照手姫は、満重の死後出家して遊行上人を頼り、名を長生尼(長照尼)と改めて満重の冥福を祈ったと伝えられています。


名馬「鬼鹿毛」の墓

鬼鹿毛は、満重が逃げ延びるときに使った馬です。


小栗判官と十勇士の墓

満重は、落ち延びる途中に横山大膳によって殺された十勇士とともに供養されています。


判官目洗の池


小栗判官の伝説は、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃で演じられたものです。

史実は、「反乱を起こして小栗城が落ちたときに自刃した」ということなのかと思われます。

小栗判官が芝居として取り上げられたのは、近松門左衛門の人形浄瑠璃「当流小栗判官」だったと伝えられています。

近松門左衛門は、元禄期に活躍した人形浄瑠璃と歌舞伎の作者です。「当流小栗判官」は1698年(元禄11年)の作品でした。



遊行寺




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飯盛女の墓~藤沢:永勝寺~

旧東海道のJAさがみ藤沢支店の脇道を入って行くと浄土真宗の永勝寺があります。

創建は1691年(元禄4年)と伝えられていて、もとは鎌倉にあったといいます。

永勝寺には、飯盛旅籠「小松屋」に抱えられていた飯盛女の墓が39基あります。


永勝寺の入口

~飯盛女の墓~

山門をくぐった左側に古い墓塔が並んでいます。

全部で39基が残されています。

飯盛女というのは・・・
江戸時代の旅籠で給仕をしていた女の人です。
給仕というと聞こえが良いのですが、主目的は遊女としての側面にありました。

旅籠は役人の宿泊所として利用されてきましたが、江戸時代に入ると、庶民が旅行や社寺参詣に出掛けるようになります。

それに伴って旅籠屋が発展し栄えるようになると、町の風俗にも変化が生じます。



~幕府の措置~

幕府は、1825年(文政8年)、藤沢外四宿に次のようなお触れを出しているようです。

一、旅籠屋一軒に飯盛女二人以上おかない。

一、飯盛女に木綿以外の衣類を認めない。

一、無理に呼び込み酒食を勧めたり、多額な要求をしない。

一、宿内のものはもちろん、助郷人足や近住のものは決して宿泊させない。

一、藤沢宿では、江の島その他に参詣にくるものが多いが、その際、飯盛女を出迎えにやらせない。


飯盛女がこのような形で葬られているのは珍しいことのようです。

時代劇でもよく見られますが、借金の返済や年貢を納めるために娘が売られていくという時代でした。

飯盛女もそのようにして売られてきた者で、その多くが逃亡や心中、あるいは、廃病という末路だったといいます。

永勝寺の飯盛女の墓は、1761年(宝暦11年)から1801年(享和元年)に葬られたものといいます。


鎌倉手帳
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正宗稲荷大明神~藤沢:妙善寺~

日蓮宗妙善寺には、正宗稲荷大明神が祀られています。

この「正宗」には多説あるようですが、鎌倉の刀工正宗の伝説をご紹介します。


旧東海道の妙善寺への入口
石標の側面には、

「開運正宗稲荷大明神」と彫られています。

朱塗りの山門

本 堂
もとは、真言宗の寺でしたが、
1280年(弘安3年)、

日聞によって日蓮宗に改宗されたと伝わっています。

正宗稲荷大明神
鎌倉扇ヶ谷の刀工五郎入道正宗が祈願したと伝えられています。


天保13年の『雞肋温故』の記載によると、五郎入道正宗が宝剣を鍛えた時の守護神であると伝えています。

正宗は、
「1299年(正安元年)2月、後伏見上皇に宝剣を鍛えるよう勅命を受けました。

その時正宗は片手を痛めていたのでかなり難しい注文でした。

しかし、「異人が現れて相槌を打ってくれたのおかげで、宝剣を鍛えることができた」
と伝えられています。


正宗工芸
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鎌倉手帳
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源頼朝が勧請した三嶋大明神~藤沢:感応院~

東海道の藤沢橋を戸塚方面へと向かった右側に、藤沢でも歴史の古い感応院があります。

1218年(建保6年)、三代将軍源実朝によって創建されたと伝えられている寺院です。

その感応院の境内には、源頼朝三嶋神社を勧請したとされている「三嶋大明神」があります。


これが三嶋大明神


 堂が回転するように造られています。



中には経が納められていて、回転させることでご利益があるといいます。
鎌倉の長谷寺の経蔵のような感じでしょうか。


感応院は、江戸時代には幕府の仏教学研修所である「檀林所」に指定され、末寺が14か寺あったという大きな寺だったといいます。





鎌倉手帳
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2010年12月26日日曜日

藤沢に残された源義経の伝説

源義経は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦に勝利し、父義朝の仇である平氏を滅亡させたいう英雄ですが、兄頼朝とはうまくいかず、1185年(元暦2年)、平宗盛を護送し鎌倉に凱旋しようとしますが、鎌倉入りを阻止されてしまいます。

七里ヶ浜には、義経の鎌倉入りを阻止するために「関所」が設けられていたと伝えられています(参考:金洗沢)。

義経は、腰越の満福寺から有名な「腰越状」を送ったそうですが、頼朝の許しを得られることはありませんでした。

その後、再び平宗盛を護送し京へ帰りますが、間もなく朝敵とされ、奥州の藤原秀衡を頼ります。

しかし、秀衡が亡くなると、後を継いだ泰衡に攻められ、衣川の館で自刃しました(1189年(文治5年))。

自刃した義経の首は、首実検のため鎌倉に運ばれてきました。その場所は、腰越の浜であったと伝えられています。


白旗神社
https://www.yoritomo-japan.com/sirahata-fujisawa.htm

源義経を祀る神社です。

『吾妻鏡』には、

「1189年(文治5年)、奥州平泉で自刃した義経の首が腰越で首実検された」

という内容の事は書かれていますが、その後どうなったのかは書かれていません。

白旗神社には、「境川を遡上して流れ着いた」とか、「弁慶の首とともに飛んできた」などと伝えられています。

弁慶の力石(白旗神社)

源義経公鎮霊碑(白旗神社)

源義経の没後810年を記念して建立された碑。

平成11年、宮城県栗原市の義経の「骸」と、藤沢の「首」の霊が合わせられました。

宮城県栗原市には「判官森」という所があって、ここに義経の五輪塔があるそうです。

「判官」というのは・・・

義経が後白河法皇からもらった「検非違使従五位下左衛門少尉」という官位からきています。

「左衛門少尉」という位を「判官」といいます。

「判官贔屓」(ほうがんびいき)の「判官」もここからきています。

つまり、この場合、「判官」=「義経」ということになります。


義経首洗井戸
https://www.yoritomo-japan.com/yositune-kubiarai.htm

奥州で自刃した源義経の首は、腰越の浜で和田義盛梶原景時が首実検しました。

その後この地に漂着した義経の首を、村人がこの井戸の水で洗い清めたと伝えられています。

清められた首が葬られた「首塚」もあったそうです。

のちに「首塚の北の山上に営まれた社が白旗神社である」という説もあります。


義経の位牌・・・荘厳寺
https://www.yoritomo-japan.com/sogonji-fujisawa.htm

1184年(元暦元年)創建の高野山真言宗の寺。

かつては、白旗神社の別当寺でした。

そのためかどうかわかりませんが、源義経の位牌が安置されているということです。


弁慶塚(常光寺)
https://www.yoritomo-japan.com/jyokoji-fujisawa.htm

浄土宗常光寺(鎌倉光明寺の末)にあります。

かつて、白旗神社の末社八王子社があった所とされています。

白旗神社の八王子社というのは、義経に従った弁慶を祀った社のことです。


常光寺

阿弥陀如来


平氏を滅ぼした英雄でありながら、ほとんど歴史にその名を残さず、短い人生を終えた義経の最期は、人々の同情を引いて「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を産んでいます。

これだけ有名な武将であるにもかかわらず、歴史上に登場するのは、ほんの数年間で、その中でも史実として紹介されているのは、1183年の木曽義仲の討伐から1185年の平氏の滅亡までの極短い期間となります。






 源義経伝説

 奥州平泉

 歴史めぐり源頼朝




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2010年12月24日金曜日

スイセン・冬さくら・マンリョウ~瑞泉寺~

スイセン
瑞泉寺のスイセンは、かなり早い時期から咲き始めます。
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/zuisenji-suisen.htm

冬さくら
徳川光圀のお手植えとされる古木です。
3月から4月頃まで咲いているそうです。

マンリョウ
晩秋の「実もの」も瑞泉寺の自慢です。



鎌倉手帳