別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2010年12月27日月曜日

飯盛女の墓~藤沢:永勝寺~

旧東海道のJAさがみ藤沢支店の脇道を入って行くと浄土真宗の永勝寺があります。

創建は1691年(元禄4年)と伝えられていて、もとは鎌倉にあったといいます。

永勝寺には、飯盛旅籠「小松屋」に抱えられていた飯盛女の墓が39基あります。


永勝寺の入口

~飯盛女の墓~

山門をくぐった左側に古い墓塔が並んでいます。

全部で39基が残されています。

飯盛女というのは・・・
江戸時代の旅籠で給仕をしていた女の人です。
給仕というと聞こえが良いのですが、主目的は遊女としての側面にありました。

旅籠は役人の宿泊所として利用されてきましたが、江戸時代に入ると、庶民が旅行や社寺参詣に出掛けるようになります。

それに伴って旅籠屋が発展し栄えるようになると、町の風俗にも変化が生じます。



~幕府の措置~

幕府は、1825年(文政8年)、藤沢外四宿に次のようなお触れを出しているようです。

一、旅籠屋一軒に飯盛女二人以上おかない。

一、飯盛女に木綿以外の衣類を認めない。

一、無理に呼び込み酒食を勧めたり、多額な要求をしない。

一、宿内のものはもちろん、助郷人足や近住のものは決して宿泊させない。

一、藤沢宿では、江の島その他に参詣にくるものが多いが、その際、飯盛女を出迎えにやらせない。


飯盛女がこのような形で葬られているのは珍しいことのようです。

時代劇でもよく見られますが、借金の返済や年貢を納めるために娘が売られていくという時代でした。

飯盛女もそのようにして売られてきた者で、その多くが逃亡や心中、あるいは、廃病という末路だったといいます。

永勝寺の飯盛女の墓は、1761年(宝暦11年)から1801年(享和元年)に葬られたものといいます。


鎌倉手帳
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

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