別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年10月30日水曜日

皇后宮娍子の立后の儀と藤原道長


1012年(寛弘9年)、藤原道長三条天皇に入内していた次女の妍子を中宮としましす。

一方、道長と不和だった三条天皇は、妍子より先に入内して第一皇子の敦明親王を生んでいた娍子を皇后宮としました。

これにより、絶大な権力を誇っていた道長と天皇親政を目指す三条天皇との対立が決定的となります。


娍子の立后の儀式の日・・・

道長

「同日は中宮妍子の参内の日である」

として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に行ってしまったのだとか。

道長の嫌がらせによって、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったらしい。


📎皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~



紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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2024年10月29日火曜日

賢子が連れてきた双寿丸のモデルは藤原兼隆?~光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」では、双寿丸という男が紫式部の娘・賢子と恋仲になるような気配ですが・・・

双寿丸は平為賢の従者で、賢子を盗人から救ったことで、屋敷に出入りするようになります。

実在した人物ではないようですが、どういう人物をモデルに描かれているのでしょうか?


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


平為賢は1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇で活躍した武者。

妻は高階成順の娘(大姫御前と呼ばれていたらしい。)。

高階氏といえば、藤原伊周隆家兄弟の母貴子がいますが、成順は貴子の兄弟・明順の子。

つまり大姫御前は貴子の姪孫(てっそん・甥の子)にあたります。

そして、為賢が活躍した刀伊の入寇の総指揮官は隆家


賢子は1017年(長和6年)頃から、皇太后・藤原彰子のもとに出仕します。

そして、藤原道兼の次男・兼隆と結婚します。

兼隆は貴子の義甥(ぎせい・義兄弟の子)。


高階貴子つながりからすると、双寿丸は藤原兼隆をモデルとしているのかも。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


賢子は恋多き女性だったといわれ、藤原道長の次男・頼宗、藤原公任の長男・定頼とも交際していたといわれています。

そして、高階成章とも結婚しています。

成章は貴子の従甥(じゅうせい・従兄弟の子)。

ただ、結婚したのは、1025年(万寿2年)に賢子後冷泉天皇の乳母に任ぜられた後で、1037年(長暦元年)頃といわれているので、少し無理があるのかもじれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

参考までに、平為賢は常陸国筑波郡多気を拠点としていた平維幹(多気氏の祖)の四男。

『宇治拾遺物語』によると、妻の大姫御前は、維幹が上洛した時に盗み、常陸国へ連れ帰った娘なのだとか。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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皇太后彰子の御所となった枇杷殿


京都御苑:枇杷殿跡
(京都御苑)


枇杷殿は、藤原道長の次女・藤原妍子の里邸として整備された御殿。

一条天皇の里内裏・一条院が焼失した際には、 一条天皇が中宮・藤原彰子らとともに遷御したこともありました。

1011年(寛弘8年)、一条天皇が崩御。

中宮彰子枇杷殿に遷御して御所とします。

彰子に仕えていた紫式部も枇杷殿へ出仕することとなります。


ありし世は
夢に見なして
涙さへ
とまらぬ宿ぞ
悲しかりける



この歌は、彰子が一条院から枇杷殿に遷るこことなった時に紫式部が詠んだ歌。

「帝がおいでになった時代が夢だったと思うと涙がとまらない。

思い出のある御所に留まることを許されず、移らなければならないのは悲しいことです」




紫式部


藤原道長

藤原彰子









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2024年10月28日月曜日

光源氏と敦明親王がなった准太上天皇と源氏物語


『源氏物語』光源氏藤壺の不義の子として登場する冷泉帝は、光源氏を「太上天皇になずらふ御位」としました。

「太上天皇になずらふ御位」とは、太上天皇(上皇)に准じた待遇ということ。

「准太上天皇」とも呼ばれます。

では、歴史上で准太上天皇となった人物はいるのか?

1017年(寛仁元年)に三条天皇の第一皇子・敦明親王がなっているようです。

紫式部敦明親王の准太上天皇を参考に光源氏の准太上天皇を書いたとも考えられますが・・・

『源氏物語』は1017年にまだ完成していなかったのでしょうか?

『紫式部日記』によると、1008年(寛弘5年)に藤原彰子『源氏物語』と思われる冊子を作って一条天皇に献上しているので、1008年には大部分が完成していたのかと・・・

ということは、敦明親王の准太上天皇は『源氏物語』を参考にしたのかも。

※1017年に紫式部が生存していたかどうかも不明です。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









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