別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年3月23日土曜日

2024源頼朝旗挙げ武者行列~湯河原町~


2022年の土肥祭


2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」

「源頼朝旗挙げ武者行列では、湯河原町出身の船越英一郎さんが源頼朝役、「鎌倉殿の13人」に出演された阿南健治さんが土肥実平役で出陣しました。





2024年の「源頼朝旗挙げ武者行列では船越英一郎さんが源頼朝役、河相我聞さんが土肥実平役で出陣します。


「源頼朝旗挙げ武者行列」は、1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵し、相模国へ進軍した源頼朝石橋山へ出陣する様子を再現したもの。

五所神社から桜木公園までを土肥実平源頼朝北条時政北条政子などがパレードします。





五所神社


伊豆国で挙兵した源頼朝は、石橋山へ出陣する前夜、五所神社の社前で戦勝祈願の護摩を焚いたと伝えられています。
「源頼朝旗挙げ武者行列は五所神社からスタート。

9:30から焼亡の舞・武将の名乗り・出陣の儀が行われます。

そして、10:40頃に出陣。


土肥祭
武将の名乗り・出陣の儀



石橋山の戦いに敗れた頼朝は、山中に逃れ、一時、箱根権現に身を寄せますが、土肥実平の手引きによって真鶴から安房へ渡ることに決めます。

真鶴へと向かう山中で頼朝一行が見たのは、実平の屋敷が燃える光景でした。

実平は「我が家は何度も焼けば焼け」と歌い舞い、頼朝はその舞に感じ入ったのだと伝えられています。


(城願寺)

城願寺では、源頼朝主従の法要が執り行われます。

法要は13:40頃から。


土肥実平



土肥祭


湯河原・真鶴の源頼朝伝説


源頼朝挙兵


石橋山の戦い


熱海と源頼朝の伝説







☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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八重姫の梯子供養~伊豆の国市:真珠院の八重姫まつり




真珠院八重姫梯子供養は、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を

「せめて梯子あったら救うことができたのに」

という里人の想いから始められたという祭。

毎年、4月第二日曜日に開催されています。


八重姫は伊東を本拠とした伊東祐親の娘。

祐親が大番役で京都に行っている間、八重姫は源頼朝と結ばれました。

千鶴丸という男児も授かりますが・・・

京都から帰った祐親は、千鶴丸を殺害し、八重姫を伊東館に幽閉。

頼朝は北条時政を頼ったようです。


幽閉生活を送った八重姫ですが、頼朝に会いたい一心で伊東館を抜け出して北条館へと向かいます。

しかし、頼朝は時政の娘政子と結ばれていました。

傷心の八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたのだといいます。







八重姫

千鶴丸


伊東祐親


源頼朝配流の地・北条氏発祥の地


北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


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2024年3月12日火曜日

花は桜木、人は武士~義経桜と重忠桜~


「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」

これは、室町時代の禅僧・一休宗純の名言。

花は桜がすばらしい。

そして、ぱっと咲いてぱっと散る桜のように、美しく咲き潔く散る武士はすばらしい。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




1184年(寿永3年)1月20日、源義経宇治川の戦いで花を咲かせました。

同年2月7日には一ノ谷の戦いで、翌年2月19日には屋島の戦いで平家を敗走させます。

そして3月24日、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。

義経が歴史上で輝いていたのはこの1年。

まさにぱっと咲いた義経桜でした。

その後、兄の頼朝と不仲となってしまった義経は、「花はみよしの」の吉野山静御前と別れ、奥州平泉へ。

1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館で最期を遂げます。


壇ノ浦古戦場


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




「鎌倉武士の鑑」といわれた畠山重忠は、1205年(元久2年)6月22日​、北条時政の謀略により、武蔵国の二俣川で最期を遂げました。

重忠は、僅か150騎を従えていたのみで、家臣からは引き返すよう進言されますが、「潔く戦うことが武士の本懐」として討伐軍を迎え撃つことにしたのだといいます。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


宇治川の戦い

一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


源義経最期の地


畠山重忠の乱


源義経

畠山重忠









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鎌倉の桜


桜の開花予想・開花状況


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~桜の次はアジサイ~

鎌倉アジサイ特集


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2024年2月25日日曜日

源頼朝と雛まつりの起源となった上巳の節句~鶴岡八幡宮では舞楽や流鏑馬が~


『吾妻鏡』によると・・・

鶴岡八幡宮で行われた上巳の節句の法要には、源頼朝も出席していました。


1189年(文治5年)3月3日、頼朝参列。

舞楽、流鏑馬、相撲などが奉納される。


1190年(文治6年)3月3日、頼朝参列。


1191年(建久2年)3月3日、箱根権現の稚児が舞を奉納。

臨時祭では、飾り馬が十頭、流鏑馬が十六騎手、相撲が十六番を奉納しました。

頼朝をはじめ、安田義資・山名義範・北条義時小山朝政小山朝光三浦義澄和田義盛佐原義連・伊藤家光・葛西清重などが参列。

ただ、3月4日未明、鎌倉は大火に遭い、鶴岡八幡宮頼朝の御所も焼失しています。


1192年(建久3年)3月3日、頼朝頼家が参列。

いつもどおり舞楽がされる。


1193年(建久4年)3月3日、頼朝参列。

舞楽はいつもどおりだが、2月7日から練習してきた別当の円暁と供僧らの弟子・御家人の子らが舞っている。


1194年(建久5年)3月3日、頼朝参列。



舞楽面

鶴岡八幡宮舞楽面は重要文化財。

残されている5面の内、陵王、貴徳鯉口、貴徳番子、散手の4面は、1195年(建久6年)に東大寺大仏殿落慶供養に参列した源頼朝が、鎮守八幡宮(手向山八幡宮)から贈られたものと伝えられています。


小笠原流流鏑馬


1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は放生会の後に流鏑馬を奉納。

この放生会が現在の例大祭となっています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3月3日には・・・

1174年(承安4年)3月3日、遮那王(源義経)が鞍馬寺を出奔、奥州平泉藤原秀衡のもとへ(『平治物語』)。

1207年(承元元年)3月3日を最後に、『吾妻鏡』から足立遠元の記事が消える。

1218年(建保6年)3月3日、八田知家が死去。

1242年(仁治3年)3月3日、北条泰時は、僧徒の帯刀を禁じ、刀剣を没収して大仏造立のために奉げることを決定。

1582年(天正10年)3月3日、織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐で、武田勝頼が新府城を焼き払う。

1860年(安政7年)3月3日、江戸城の桜田門の近くで井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。

1927年3月3日の雛まつりには、明治神宮外苑の日本青年館で、渋沢栄一も出席した青い目の人形の歓迎式が盛大に行われた。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「雛まつり」は、3月上旬の巳の日に、「邪気祓い」のために行われていた「上巳の節句」がその起源。

紫式部『源氏物語』では、光源氏が蟄居していた須磨の浜で上巳の禊を行っています。

清少納言の『枕草子』や『源氏物語』には、「雛」(ひいな)という紙で折った小さな人形が出てきますが、この雛と上巳の節句に用いられた「人形」が結びついたものが雛人形といわれています。



上巳の節句









紫式部

鎌倉殿の13人

青天を衝け:渋沢栄一


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