別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




2024年2月25日日曜日

源頼朝と雛まつりの起源となった上巳の節句~鶴岡八幡宮では舞楽や流鏑馬が~


『吾妻鏡』によると・・・

鶴岡八幡宮で行われた上巳の節句の法要には、源頼朝も出席していました。


1189年(文治5年)3月3日、頼朝参列。

舞楽、流鏑馬、相撲などが奉納される。


1190年(文治6年)3月3日、頼朝参列。


1191年(建久2年)3月3日、箱根権現の稚児が舞を奉納。

臨時祭では、飾り馬が十頭、流鏑馬が十六騎手、相撲が十六番を奉納しました。

頼朝をはじめ、安田義資・山名義範・北条義時小山朝政小山朝光三浦義澄和田義盛佐原義連・伊藤家光・葛西清重などが参列。

ただ、3月4日未明、鎌倉は大火に遭い、鶴岡八幡宮頼朝の御所も焼失しています。


1192年(建久3年)3月3日、頼朝頼家が参列。

いつもどおり舞楽がされる。


1193年(建久4年)3月3日、頼朝参列。

舞楽はいつもどおりだが、2月7日から練習してきた別当の円暁と供僧らの弟子・御家人の子らが舞っている。


1194年(建久5年)3月3日、頼朝参列。



舞楽面

鶴岡八幡宮舞楽面は重要文化財。

残されている5面の内、陵王、貴徳鯉口、貴徳番子、散手の4面は、1195年(建久6年)に東大寺大仏殿落慶供養に参列した源頼朝が、鎮守八幡宮(手向山八幡宮)から贈られたものと伝えられています。


小笠原流流鏑馬


1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は放生会の後に流鏑馬を奉納。

この放生会が現在の例大祭となっています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3月3日には・・・

1174年(承安4年)3月3日、遮那王(源義経)が鞍馬寺を出奔、奥州平泉藤原秀衡のもとへ(『平治物語』)。

1207年(承元元年)3月3日を最後に、『吾妻鏡』から足立遠元の記事が消える。

1218年(建保6年)3月3日、八田知家が死去。

1242年(仁治3年)3月3日、北条泰時は、僧徒の帯刀を禁じ、刀剣を没収して大仏造立のために奉げることを決定。

1582年(天正10年)3月3日、織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐で、武田勝頼が新府城を焼き払う。

1860年(安政7年)3月3日、江戸城の桜田門の近くで井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。

1927年3月3日の雛まつりには、明治神宮外苑の日本青年館で、渋沢栄一も出席した青い目の人形の歓迎式が盛大に行われた。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「雛まつり」は、3月上旬の巳の日に、「邪気祓い」のために行われていた「上巳の節句」がその起源。

紫式部『源氏物語』では、光源氏が蟄居していた須磨の浜で上巳の禊を行っています。

清少納言の『枕草子』や『源氏物語』には、「雛」(ひいな)という紙で折った小さな人形が出てきますが、この雛と上巳の節句に用いられた「人形」が結びついたものが雛人形といわれています。



上巳の節句









紫式部

鎌倉殿の13人

青天を衝け:渋沢栄一


よりともジャパン.com


検索

Translate