流鏑馬は、疾走する馬上から鏑矢を放ち的を射る弓術。
流鏑馬史料の初見は、藤原宗忠の日記『中右記』。
1096年(永長元年)4月29日と5月2日に白河上皇が鳥羽離宮の馬場殿で流鏑馬を観覧したのだといいます。
その後、流鏑馬は城南宮(城南寺明神)の祭礼行事として定着します。
流鏑馬を北面の武士に勤めさせることで院側近の勢力結集という目的があったのだと考えられています。
のちに源頼朝が鶴岡八幡宮の放生会で始めた流鏑馬も軍事力の結集が目的であったのだといわれています。
『承久記』によると・・・
1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は、鳥羽の城南院(城南寺)の流鏑馬のためと称して、在京の武士・畿内の兵士らを高陽院殿(里内裏)に集めます。
その数は一千五百騎余りになったのだとか。
そして、翌日、北条義時追討の院宣を発しました。
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