1200年(正治2年)12月27日、源頼家は、有力御家人・官僚の領地を中小御家人に分配する政策を打ち出します。
『吾妻鏡』によると・・・
頼家は、諸国の大田文を取り寄せて源性に計算をさせます。
そして、治承・養和以後の新恩地について、五百町を超えている場合、その超過分を領地を与えられていない御家人に与えるよう大江広元に命じました。
しかし、宿老たちは「珍事」、「人の憂い」、「世の謗り」として反対します。
翌日、三善善信が遠回しにそれとなく諫めたため、頼家はしぶしぶ決定を延期したのだといいます。
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御恩と奉公
この政策は、有力御家人や官僚の勢力を削ぎ、頼家への権力集中を図るためには有効な手段だったかもしれませんが、源頼朝以来の鎌倉殿の務めは・・・
一、戦功をあげた者の所領を安堵すること。
一、戦功に応じた恩賞を与えること。
鎌倉殿と御家人は「御恩と奉公」で成り立っていたことを考えると宿老らの反対は当然だったのかもしれません。
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源性とは?
『吾妻鏡』によると・・・
頼家から大田文の計算を任された源性は、算術に優れ、見ただけでその田畑の面積を間違えることがなかったのだといいます。
また、弘法大師が始めたと伝えられる五筆(両手両足と口に筆を加えて文字を書く芸)を極めていたのだといいます。
参考までに、1203年(建仁3年)の比企能員の変後、頼家の嫡子一幡の小袖を見つけ出したのは源性でした。
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