『承久記』によると、1221年(承久3年)5月15日に発せられた北条義時追討の宣旨は、次のような内容。
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五畿内(大和・山城・和泉・河内・摂津の五箇国)諸国はすみやかに北条義時を追討して、院庁に参上して裁断を仰ぐように。
諸国の荘園守護・地頭らの事は、右内大臣(久我通光)が広く公に告げ知らせよ。
近頃、北条義時は勅を下しても「関東の裁断」として偉そうに天下の政務を乱している。
好き勝手な裁断を京都と鎌倉に下し、天皇・朝廷の支配下にある者が従うべき法を軽んじている。
義時の政治は謀反である。
すみやかに五畿(大和・山城・和泉・河内・摂津の五箇国)・七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)の諸国に命じ、北条義時を追討せよ。
また、諸国荘園の守護・地頭らで言上すべき事のある者は、院庁に参って申し述べ、是非を判断せよ。
そもそも国司や荘園領主は、事を天皇の命令に任せて、乱行や干渉をすべきではない。
これを固く守り、違反する者がいるならば、この命により通知せよ。
承久三年五月十五日
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(鶴岡八幡宮)
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
山が裂けて海が干上がってしまうような世になってしまっても、上皇様を裏切るような心は私にはありません。
こう詠んでいた源実朝が暗殺されると、それまで良好だった幕府と後鳥羽上皇の関係が急速に悪化していきました。
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