別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2019年5月14日火曜日

朝廷軍に与した三浦義村の弟・胤義~承久の乱~


三浦胤義は、三浦義澄の末子で三浦義村の弟。

胤義の正室は、二代将軍源頼家の側室だった一品房昌寛の娘で、頼家が修禅寺で暗殺された後、胤義が妻に迎えていました。

頼家の三男・栄実と四男・禅暁は胤義の妻が産んだ子。

栄実は、1213年(建暦3年)2月の泉親衡の乱に利用された後、北条政子の計らいで出家していましたが、1214年(建保2年)、和田の残党に再び擁立されて六波羅を襲撃しようと企て、その計画が露見し、幕府の襲撃を受けて自刃したといわれています(参考:和田合戦)。

禅暁は頼家の死後、仁和寺に預けられました。


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~将軍擁立の夢~

1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺され、実朝を討った公暁が誅殺されると、胤義は、禅暁を将軍に据えようと考えます。

しかし、北条政子北条義時は、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を将軍として迎えてしまいます。

禅暁は公暁に加担していたとして、1220年(承久2年)4月14日に誅殺されてしまいました。


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~承久の乱~

『承久記』によれば・・・

検非違使判官に任じられて在京していた胤義は、承久の乱の首謀者の一人・藤原秀康に誘われて朝廷軍に与します。

その理由は、頼家との子を北条氏に殺されて嘆き悲しむ妻を哀れに思い、鎌倉に謀叛を起こそう考えたからだといいます。


『吾妻賀』によると・・・

1221年(承久3年)6月14日、幕府軍は、北条泰時が宇治川を渡河し、北条時房が瀬田橋を突破して、朝廷軍を敗走させ、翌15日には京都市中に進軍します。

胤義は東寺の門中に籠って、同族の三浦・佐原の軍勢と戦った後、西山の木嶋(太秦)で自殺しました。

首は胤義の家来が太秦の自邸へ持って向かいましたが、兄の三浦義村が捜し出して手に入れ、六波羅の泰時邸へ送ったのだとか・・・。



 東寺

三浦胤義が籠った東寺は、中世には城郭化されていたものと考えられます。

南北朝期には足利尊氏も陣を敷きました。

現在でも南大門北大門の外側には堀が残されています。



承久の乱

 三代執権北条泰時

 北条政子の言葉~承久の乱~


 宇治橋

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