三浦胤義は、三浦義澄の末子で三浦義村の弟。
胤義の正室は、二代将軍源頼家の側室だった一品房昌寛の娘で、頼家が修禅寺で暗殺された後、胤義が妻に迎えていました。
頼家の三男・栄実と四男・禅暁は胤義の妻が産んだ子。
栄実は、1213年(建暦3年)2月の泉親衡の乱に利用された後、北条政子の計らいで出家していましたが、1214年(建保2年)、和田の残党に再び擁立されて六波羅を襲撃しようと企て、その計画が露見し、幕府の襲撃を受けて自刃したといわれています(参考:和田合戦)。
禅暁は頼家の死後、仁和寺に預けられました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~将軍擁立の夢~
1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺され、実朝を討った公暁が誅殺されると、胤義は、禅暁を将軍に据えようと考えます。
しかし、北条政子と北条義時は、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を将軍として迎えてしまいます。
禅暁は公暁に加担していたとして、1220年(承久2年)4月14日に誅殺されてしまいました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~承久の乱~
『承久記』によれば・・・
検非違使判官に任じられて在京していた胤義は、承久の乱の首謀者の一人・藤原秀康に誘われて朝廷軍に与します。
その理由は、頼家との子を北条氏に殺されて嘆き悲しむ妻を哀れに思い、鎌倉に謀叛を起こそう考えたからだといいます。
『吾妻賀』によると・・・
1221年(承久3年)6月14日、幕府軍は、北条泰時が宇治川を渡河し、北条時房が瀬田橋を突破して、朝廷軍を敗走させ、翌15日には京都市中に進軍します。
胤義は東寺の門中に籠って、同族の三浦・佐原の軍勢と戦った後、西山の木嶋(太秦)で自殺しました。
首は胤義の家来が太秦の自邸へ持って向かいましたが、兄の三浦義村が捜し出して手に入れ、六波羅の泰時邸へ送ったのだとか・・・。
三浦胤義が籠った東寺は、中世には城郭化されていたものと考えられます。
南北朝期には足利尊氏も陣を敷きました。
現在でも南大門や北大門の外側には堀が残されています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河は北条義時