別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2018年3月11日日曜日

源頼朝が伊豆国へ流された日。

1159年(平治元年)12月に起こった平治の乱

源頼朝が初陣を果たした合戦。

『平家物語』によれば、頼朝は、先祖源義家以来源家に伝えられる「源太が産衣(うぶぎぬ)」を着用し、同じく「髭切(ひげきり)」を帯びていたと伝えられています。

※「源太が産衣」は、義家が2歳のときに着用した鎧で、「髭切」は、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったという太刀だったといいます。

📎源氏重代の太刀~頼朝の「髭切」と義経の「膝丸」~


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しかし、平清盛に敗れてしまいます。

頼朝は、父義朝とともに東国へ逃れようとしますが、途中美濃で一行とはぐれ、平頼盛の追手に捕らえられます。

義朝は、尾張国で旧臣長田忠致の裏切りに遭って殺され、兄義平朝長もそれぞれ命を落としています。


 源義朝の墓
(愛知県美浜町・野間大坊)


捕らえられた頼朝は、1160年(永暦元年)2月9日、京都・六波羅へ送られます。

源氏の正嫡ですので断罪に処せられるところでしたが、平清盛の継母池禅尼の懇請で命を助けられたのだと伝えられています。

そして、3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島へ流されました。

頼朝の幼い弟たちも処分され、希義は土佐国介良荘へ流罪、今若(全成)は醍醐寺で出家、乙若(義円)は園城寺で出家、牛若(義経)は鞍馬寺に預けられています。

「平治の乱」の折、範頼がどうしていたのかは確認されていません。


 蛭ヶ小島


『吾妻鏡』によると、頼朝を配流地の伊豆へ送り届けたのは、平宗清(池禅尼の家人)と祐範(ゆうはん:頼朝の母由良御前の弟)だったそうです。






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 源義朝最期の地

 源頼朝配流地

 伊豆・箱根

 歴史めぐり源頼朝



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