1212年(建暦2年)2月28日、三浦義村は相模川の橋が腐って傷んでいるので、修理することを提案します。
北条義時、大江広元、三善善信らが議論した結果、
「この橋は1198年(建久9年)に稲毛重成が新造したもの。
供養の日には故将軍家(源頼朝)も出席されたが、その帰路、落馬して、それから程なく亡くなられた。
その後、重成もわざわいに遭っているので、縁起の良いことではない。」
ということで、
「修理する必要はない」と決定。
それを源実朝に報告したところ・・・
実朝は
「故将軍家が亡くなったのは、20年もの間、政権を握り、官位を極めた後のこと。
重成は、自らの不義による天罰。
橋を架けたことによるものではない。
したがって縁起が悪いとするのはおかしい。
二所詣の要路でもあるし、庶民の往来にも便利で、橋があることの利益はたくさんある。
倒壊してしまう前に修理するように」
と命じたのだそうです。
(茅ヶ崎市)
旧相模川橋脚は、1923年(大正12年)の関東大震災で浮き上がってきたもので、源頼朝が渡り初めをした橋のものと考えられています。
※現在設置されているのはレプリカ。
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【参考】
1198年(建久9年)12月27日、源頼朝は、稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の供養に出かけ、その帰りに落馬して、そのことが原因で翌年正月13日に亡くなったのだと伝えられています。
稲毛重成は、1205年(元久2年)6月23日、畠山重忠の乱において「畠山謀叛」を言い立てたとして北条義時に討たれています。
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