1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮では放生会が催され、流鏑馬が奉納されました。
(これが、鶴岡八幡宮例大祭の始まりといわれています。)
『吾妻鏡』によれば・・・
射手は五騎馬。
一番 射手 長江太郎義景
二番 射手 伊沢五郎信光
三番 射手 下河辺庄司行平
四番 射手 小山千法師丸
五番 射手 三浦平六義村
的に当らない者はなく終了しました。
しかし、その後珍事が起こります。
諏訪大夫盛澄という者が召し出され、流鏑馬を射るよう命じられます。
盛澄は、流鏑馬の芸を極めた人物で、藤原秀郷の秘伝を伝えているといいます。
平家の家人として京都に住んでいたときは、城南寺の流鏑馬などに出ていました。
そんな理由から、源頼朝のもとに参上するのが遅れたため、囚人として扱われていました。
ただ、流鏑馬の一流が途絶えてしまうことから処刑は免れていたようです。
頼朝は、この日、盛澄を召し出します。
そして、流鏑馬を射るよう命じます。
盛澄は厩一の悪馬を賜り、騎乗します。
すると、厩の舎人(管理者)が、
「この馬は、的の前で必ず右の方を走ります」
と盛澄に告げたといいます。
馬はそのとおり一の的の前で右に寄りますが、盛澄は生来の武芸の達者ですので、押し直して的に命中させ、全ての的をはずしませんでした。
次に、小さな土器の皿を五寸の串に挟んだ的を3つ立てますが、これも全て射抜きます。
さらに、残った串を全て射抜くよう命じられます。
盛澄は、囚人として既に観念はしていましたが、
心の中で諏訪大明神に祈念し、鶴岡八幡宮の瑞垣の方を拝み、神霊に仕えることができるならば今一度擁護してくれるよう祈ります。
そして、五寸の串の全てを射切り、観ていた者を感動させました。
頼朝は直ちに盛澄の罪を許すよう命じたといいます。
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諏訪盛澄(金刺盛澄)は諏訪大社下宮の神官。
藤原秀郷流の流鏑馬の秘訣を習い伝えていたそうです。
源平合戦では木曽義仲の挙兵に従ったそうですが、諏訪大社の御射山神事のため上洛には従軍しなかったようです。
義仲が頼朝に討たれると捕縛されますが、盛澄の助命を願ったのが梶原景時だったのだといいます。
長野県下諏訪町には、頼朝亡き後、鎌倉を追放されて討死した景時を偲んで、盛澄が建てたという景時塚があるそうです。
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