良忠は、浄土宗開祖法然の弟子で、浄土宗第三祖と仰がれ、鎌倉での活動により浄土宗発展の基礎を築き上げた僧です。
ところで、光明寺の創建については、諸説あるようです。
一般的に伝えられているのは・・・
「鎌倉に入った良忠は、住吉谷の悟真寺(現在小坪にある正覚寺)に住して布教していたが、四代執権北条経時の帰依を受け、佐助ヶ谷に創建された「蓮華寺」の開山に迎えられ、その後、蓮華寺は材木座に移され「光明寺」と改められた(1243年(寛元元年))」
ということかと思われます。
このような流れだったすれば光明寺の開基は北条経時となるのでしょうが・・・
蓮華寺跡碑
『吾妻鏡』によれば、北条経時は、1245年(寛元3年)5月に発病し、翌年3月には病状が悪化したため、弟時頼に執権職を譲った後、閏4月1日に亡くなっています。
翌日には、佐々目(笹目)の山麓に葬られたと伝えられています。
そして、『鎌倉大日記』によれば、1251年(建長3年)、経時のために佐助ヶ谷に蓮華寺が創建され、良忠が住持したと伝えられています。
この流れからすると、蓮華寺の開基は北条時頼だったということなのかもしれません。
さらに、『良暁述聞副文』の正中2年3月15日には、「佐介ヶ谷のもと悟真寺、いま蓮華寺と号す」とあるようです(良暁は良忠の後継者)。
この悟真寺という寺は、良忠の外護者大仏朝直が建てたものと考えられ、良忠が住持していたといいます。
また、正中2年というのは、西暦でいえば1325年。
佐助ヶ谷の蓮華寺がこの時期まで存在していたとすると・・・
光明寺が蓮華寺を前身としているならば、材木座に移転された時期や「光明寺」と改名された時期は不明ということになります。
良忠墓
1287年(弘安10年)7月6日に良忠は亡くなり、「住吉の瓶子(こつぼ)山麓の荼毘所に埋葬された」といわれています。
その荼毘所というのは、鎌倉に入った良忠が布教を行っていた場所で、そこに建てられた堂が悟真寺と呼ばれ、のちに正覚寺と改名されたと伝えられています。
伝良忠荼毘所跡(正覚寺)