別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2013年2月24日日曜日

鎌倉と臨済宗開祖の栄西

我が国臨済宗の開祖栄西(明庵栄西)は、1141年(保延7年)4月20日に備中で生まれます。

2度のわたって宋で学び、帰国後の1192年(建久3年)に禅宗寺院のはじまりといわれる報恩寺を創建しました。

1194年(建久5年)には、京で禅を広めようとしますが、既成教団からの圧力を受け禅は禁止されてしまいます。

こうして栄西は鎌倉にやってきます。



栄西


『吾妻鏡』によれば・・・

源頼朝が亡くなった年の1199年(正治元年)9月26日、幕府は不動明王像の供養を行っています。

このときの導師が栄西であることが記されていますので、これ以前に鎌倉へやってきて活躍の場としていたのでしょう。


以下、『吾妻鏡』の栄西の活動記録です。

1200年(正治2年)正月13日、源頼朝の一周忌に導師を勤める(法華堂)。

1200年(正治2年)閏2月13日、北条政子が創建した壽福寺の開山に迎えられる。

1200年(正治2年)7月15日、北条政子が京で描かせた十六羅漢図の供養の導師を勤める(壽福寺)。

1202年(建仁2年)3月14日、永福寺の多宝塔の供養の導師を勤める。

1203年(建仁3年)9月2日、北条時政邸の薬師如来供養の導師を勤める(このとき北条時政は比企能員を誘き出し暗殺している(比企氏の乱)。)。

1204年(元久元年)12月18日、北条政子が南都で描かせた七観音図の供養の導師を勤める(壽福寺)。

1205年(元久2年)5月25日、御所で行われた五字文殊菩薩の供養の導師を勤める。

1211年(建暦元年)10月19日、宋本一切経五千余巻の供養の導師を勤める(永福寺)。

1211年(建暦元年)10月22日、伊賀朝光が永福寺傍らに建てた一宇の供養の導師を勤める。

1211年(建暦元年)12月25日、源実朝の持仏堂での文殊供養の導師を勤める。

1214年(建保2年)2月4日、二日酔いの源実朝『喫茶養生記』を献じる。

1214年(建保2年)6月3日、祈雨のための法華経を転読。

1214年(建保2年)7月27日、大慈寺の供養の導師を勤める。

1214年(建保2年)10月15日、大慈寺で仏舎利を供養するための法会を始行。

1215年(建保3年)6月5日、壽福寺で入滅(実際は7月5日に京都の建仁寺で入滅。)。


このように数多くの供養・修法を行った栄西ですが、ほとんどが密教的行法であったといわれています。

この間、京都と鎌倉を往復し、1202年(建仁2年)には、源頼家の外護によって京都に建仁寺を創建し、1206年(建永元年)には重源の跡を継いで東大寺大勧進となっています。



喫茶養生記


鎌倉手帳



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