1180年(治承4年)12月28日、平清盛は五男の重衡に南都を攻めさせました。
その結果、東大寺や興福寺をはじめとする南都の寺院が焼かれてしまいます(南都焼討)。
東大寺造営大勧進職として、平氏によって焼かれた東大寺の復興を果たした僧です。
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東大寺の復興は、南都焼討の翌年から始められます。
造仏造寺長官に藤原行隆が、東大寺造営大勧進職に俊乗坊重源が任命され、東大寺の復興事業が開始されました。
まず行われたのが大仏の鋳造です。
鋳造にあたったのは宋人の陳和卿でした。
大仏の鋳造は順調に進み、1184年(元暦元年)、源頼朝は鍍金(ときん:メッキ)料として千両の金を寄進し、翌年文治元年には、米一万石、砂金一千両、上絹一千疋を寄進しています。
こうして、立派な大仏が完成し、1185年(文治元年)8月28日、大仏の開眼供養が行われました。
大仏の次は大仏殿の造営です。
1186年(文治2年)、重源は周防国を東大寺造営料国として授けられますが、当時の周防国(現山口県)は、源平合戦の影響で疲弊し、労働力も不足していました。
~重源の伝説~
材木を切り出すことに疲れた人夫たちが動けないでいると、
重源はその場にあった大石をもちのように引きちぎり、
数千万にもして投げました。
人夫たちがそれを食べるとたちまち元気を取り戻し、
大木を運ぶことができたといいます。
頼朝は、材木を切り出す人夫のことや造営料米のことなどについて、地頭に命令書を出すなどして、重源にできる限りの援助を行っています。
そして、大仏の開眼供養から10年が経過した1195年(建久6年)に大仏殿は完成しました。
頼朝は数万の軍を従えて上洛し、3月12日に行われた落慶供養に参列しています。
頼朝の心の中には、「平氏が焼いた東大寺を源氏が再興した」という思いと、「鎌倉幕府の権威をあらためて世に認めさる」という政治的な考えがあったことでしょう。
~陳和卿の伝説~
東大寺の落慶供養に参列した頼朝は、
大仏を再建した陳和卿に会うことを望みますが、
和卿は、
「頼朝は平氏や弟の義経など多くの人々を殺した罪深い者であるので会いたくない」
と断ったそうです。
今や天下を治める頼朝に対してへの暴言でしたが、
頼朝は怒ることなく反対に褒美を与えたといいます。
しかし、和卿はその褒美もほとんど突き返し、兜と鞍だけをもらいます。
そして、「兜は鋳直して釘に使ってください。鞍は何かの役に立つでしょう」
といって東大寺に納めてしまったといいます。
南都焼討をした平重衡は・・・
重衡は、一の谷の合戦で敗れ、捕らえられて鎌倉に送られていましたが、東大寺の僧兵に引き渡され斬首されました。
念仏を唱えながらの最期だったといいます(1185年(文治元年)6月23日)。
(参考:教恩寺)
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鎌倉との繋がりを求めて。
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