別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年7月3日日曜日

乳母制度と頼朝・頼家・実朝


鎌倉時代の「乳母」(めのと)というのは、生まれた子に乳をあげる役目の「うばさん」ではなく、若君の養育係という意味をもっていました。

多くはその夫もその任にあたっています。


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~源頼朝の乳母~

源頼朝の乳母の一人に、武蔵国比企郡の代官比企掃部允の妻で、比企尼という人がいます。

比企尼は、平治の乱で敗れた頼朝が、伊豆国の蛭ヶ小島に流された後も、20年という長い間、頼朝の生活のための援助をしていたといいます。

そういった縁から、鎌倉に入った頼朝は、比企尼に屋敷を与えています。

その場所は、現在の比企ヶ谷で、『新編相模国風土記稿』は、それが「比企ヶ谷」の地名の起こりだと説明しているようです。


頼朝には比企尼の他に数人の乳母がいました。

○小山政光の妻寒河尼

○山内俊通の妻山内尼

○三善康信の伯母


 蛭ヶ小島
(源頼朝配流地)


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~頼家の乳母~
(頼家の乳母は比企氏)

頼朝が鎌倉に武家政権都市を創りはじめて間もなく、妻の北条政子が身籠もります。

産所として選ばれたのは比企能員の屋敷でした。

能員は比企尼の甥で、のちに養子となって比企氏を継いだ人物です。

1182年(寿永元年)8月12日、能員の屋敷で誕生したのが、のちに2代将軍となる頼家でした。

能員の妻は乳母となっています(能員の妻の他、比企尼の次女と三女も頼家の乳母を務めています。)。

その後、頼家は能員の娘若狭局を妻とし、一幡をもうけました。


 妙本寺
(比企能員の館址)


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~実朝の乳母~
(実朝の乳母は北条氏)

頼朝が征夷大将軍となった年(1192年(建久3年))の8月9日、のちの三代将軍となる実朝が誕生します。

実朝の乳母は、北条時政の娘で、母政子の妹の阿波局でした。

阿波局の夫は頼朝の異母弟の全成です。


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~乳母制度~

「乳母」というのは、「養育係」と上述しました。

しかし、なぜ若君に献身的に尽くすのでしょうか?

乳母に任命されるということは、養育してきた若君が成長したときに、その一族が側近として大きな権力を持つことができるからです。

それは、比企尼が流人の頼朝を20年間も支え続けた結果、比企能員が鎌倉幕府でも有力な御家人として栄えたことでも明らかです。


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~権力闘争~

1199年(正治元年)正月13日、頼朝がこの世を去ります。

そして、長男頼家がその家督を継ぎました。

普通は、これで安心という形なのかと思いますが・・・。

北条氏はそうではなかったようです。

頼家の側近としてその勢いを増す比企氏と、頼家の母政子の実家である北条氏との対立が深まっていくことになります。

頼家を廃して、実朝を将軍の座に据えたい北条時政は、1203年(建仁3年)、頼家が重病になったのを機に、比企能員を自邸に誘き出し暗殺してしまいます。

同時に比企の館を攻めて比企一族を滅ぼしました(比企の乱)。



 比企一族の墓

 一幡袖塚


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~頼家と実朝の悲劇~

比企の乱後、頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されました。

修禅寺には、頼家の冥福を祈るために政子が建てたという指月殿というお堂がありますが、頼家は北条氏を呪い憎み死んでいったのでしょうね。


(伊豆市)


頼家の跡を継いだ実朝は、1219年(承久元年)1月27日、頼家の子公暁によって暗殺されました。

公暁は「父の仇」と叫んで実朝を殺害したといわれています。

実朝は暗殺される日、「出でて去なばぬしなき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」と詠んでいたと伝えられています。

参考までに、公暁の乳母夫は実朝暗殺の黒幕ともいわれる三浦義村でした。

事件後、公暁は義村によって討たれています。


 実朝の首塚
(秦野市)

公暁に暗殺された実朝は、首のないまま勝長寿院に葬られたといいます。

そして、首はこの地に葬られたのだと伝えられています。







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 比企氏の乱

 修禅寺

 源実朝の暗殺


初代執権北条時政


2022年の大河は北条義時
 二代執権北条義時

鎌倉殿の13人~宿老13人の合議制~


 鎌倉手帳


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