母は美女として知られた常盤御前で、鎌倉幕府を創設した源頼朝は異母兄に当たります。
父義朝が平治の乱で敗れたため幼少時代を鞍馬寺で過ごし、16歳のときに鞍馬寺を出てからは奥州平泉の藤原秀衡の下で暮らしていました。
1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵を聞くと兄のもとへ馳せ参じます。
黄瀬川の対面が知られているところです。
しかし、鎌倉での義経の暮らしについて詳しいことは分かっていません。
※源頼朝が挙兵をした1180年(治承4年)から、源義経が壇ノ浦で平家を滅ぼした1185年(元暦2年)までの内乱を治承・寿永の乱と呼びます。
1180年(治承4年)鎌倉に入った源頼朝は、先祖頼義の建てた由比若宮を現在の地に遷します。
翌年には、浅草の大工を召して本格的な若宮造営に着手します。
その折、頼朝は、工匠たちに与えるための馬を義経にひかせました。
「たとえ弟であっても義経は御家人のうちの一人」ということを知らしめた出来事だったといわれています。
📎大工の馬事件
~合戦での活躍~
1183年(寿永2年)、頼朝は、木曽義仲を討つために義経を京に派遣します。
翌年、義経は異母兄範頼とともに京を攻め、宇治川の合戦で勝利を収めます。
木曽義仲は逃亡先の近江で討たれました。
1184年(元暦元年)、範頼と義経らは平家追討の一の谷の合戦で勝利します。
このときの義経の用いた奇襲「鵯越の逆落とし」が合戦を勝利に導いたといわれています。
しかし、京に凱旋した義経は、頼朝に無断で官位を授かったことから頼朝の怒りを受けます。
そして、その後の平家追討の軍からはずされてしまいました。
1185年(文治元年)、一時、平家追討軍からはずされていた義経でしたが、再び起用され、屋島の合戦で平家軍を破り、続く壇ノ浦の合戦では平家を滅ぼしました。
~源義経の最期~
義経は壇ノ浦の合戦後、捕えた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝に鎌倉入りを拒否されてしまいます。
鎌倉では、義経が頼朝に無断で後白河法皇から任官されたことは大きな問題となっていました。
頼朝は、金洗沢に義経の鎌倉入りを阻止する関所を設けていたと伝わっています。
(腰越)
鎌倉に入ることのできない義経は、満福寺から頼朝の側近大江広元あてに手紙を書きます。
それが有名な「腰越状」です。
内容は、兄頼朝へのとりなしを依頼するものでしたが、頼朝の許しが得られることなく京へと戻ります。
その後、後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜りますが失敗に終わり、逃亡生活を送った末、再び奥州平泉の藤原秀衡を頼りました(1187年(文治3年)2月10日)。
しかし、秀衡の死ぬと、その子泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を攻め自刃に追い込みます(1189年(文治5年)閏4月30日)。
(平泉:衣川館跡)
義経の首は鎌倉に送られ、腰越浦で和田義盛と梶原景時によって首実検が行われました(1189年(文治5年)6月13日)。
(藤沢市)
腰越で首実検された義経の首は、境川を遡り現在の白旗神社近くに流れついたといいます。
里人によって洗い清められた後、この地に葬られたとも伝えられています。
「判官贔屓」という言葉まで生んだ英雄源義経の一生で詳しい事がわかっているのは、1184年(元暦元年)の宇治川の合戦から、1185年(文治元年)の壇ノ浦の合戦までの間のみで、そのわずかな期間が義経の一番輝いていた時ということになります。
義経ゆかりの腰越では、毎年「鎌倉まつり」に併せて「義経まつり」が行われています。
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