大仏切通は、梶原・山崎を経て藤沢・武蔵方面へと通じる古道です。鎌倉時代には、要害の地「鎌倉城」の防御施設としての役割を果たしたものと考えられています。
火の見下のバス停 このバス停から細い路地に入ると大仏切通です。 |
この先が大仏切通 |
大仏切通は鎌倉七口の一つに数えられています。
大仏切通が切り開かれたのがいつなのかは定かではありませんが、朝夷奈切通や巨福呂坂が整備された1240年代ではないかと考えられているようです。
大仏切通は、やぐら・切岸・平場などが残されていて、昔の面影をよく残しています。
住友常盤住宅からも大仏切通に入れます。住宅地にある一向堂公園からも入れます。
(参考:常盤と打越の散策)
大仏トンネルが通っている山を上ります。 |
この階段を下って行くと高徳院(鎌倉大仏)側からの入口です。 |
こちらの石段を上がると長谷の貯水池です。
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この石段が高徳院(鎌倉大仏)側からの入口になります。 |
現在は一つ上の写真のとおり大仏トンネル横の石段を上って行きますが、新しい大仏トンネルが開通するまでは、トンネル手前左側の山裾の道が切通に通じていたそうです。
(現在、その旧道は稲荷社のある所までとなっています。)
かつては、この稲荷社の先に切通へ通ずる道があったそうです。 |
高徳院(鎌倉大仏)前の石地蔵 |
この石地蔵は、1651年(慶安4年)のもので、もとは、 大仏切通の峠に置かれていたものだといわれています。
重修大仏坂記の碑 |
高徳院(鎌倉大仏)前に建てられている碑です。
明治12年から始められた大仏坂(大仏切通)の修造の事などが記されています。
国宝鎌倉大仏 |
1333年(元弘3年)、洲崎では、鎌倉を攻める新田義貞軍と、鎌倉幕府の最後の執権赤橋守時軍が戦っています。
洲崎の戦いで赤橋守時は敗れ、新田軍は一気に巨福呂坂口、化粧坂坂口、極楽寺坂口に攻め入りました。
もしかすると大仏切通付近でも激戦があったのかもしれません。
鎌倉の古道
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kodou-top.htm
鎌倉手帳
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html