別冊『鎌倉手帳』




okadoのブログは、『中世歴史めぐり』の別冊。
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2011年2月13日日曜日

稲村ヶ崎・磯づたいの道~七里ヶ浜~

動岬から稲村ヶ崎までの七里ヶ浜沿いの道は、「関東ふれあいの道」の一部となっています。

かつては、旅人が砂浜に打ち上げられた海藻の香りをかぎながら、夢の鎌倉を目指したのかもしれません。




七里ヶ浜は、稲村ヶ崎小動岬との間の約2.9㎞の砂浜です。

『金兼藁』では、

二十余町の海浜を歩くのは、平地の七里を歩くのと同じくらい難儀することなので、「七里灘」(しちりなだ)と名づけたと記しているようです。

『新編鎌倉志』では、

稲村ヶ崎から腰越までを「七里浜」(しちりばま)といっています。


絵図売り婆さん

十返舎一九の『箱根山七湯江之島鎌倉廻金草鞋』に、

「浜辺より鎌倉道入る所に茶店あり、此処にて鎌倉の絵図を出し講釈してこれをあきなふ。」

とあるようです。

稲村ヶ崎には、江の島方面から来た旅人に、しつこく絵図を押し売りする茶店が三軒ほど並んでいたといいます。


音無川の河口に架けられた橋です。

極楽寺川や音無川の河口では、多くの砂鉄が採取されていました。

鎌倉で刀などの鍛冶産業が盛んになったのは、七里ヶ浜の砂鉄の影響ともいわれています。

音無川は、五代執権北条時頼が建てたという聖福寺(廃寺)辺りを源流としていて、源流近くにあった「音無の滝」から川の名も付けられているといいます。

針磨橋:https://www.yoritomo-japan.com/page136harisuri.htm
聖福寺跡:https://www.yoritomo-japan.com/page136shofukuji.htm


西田幾多郎歌碑

「七里濱 夕日漂ふ波の上に 伊豆の山々果ししらずも」

と刻まれています。

哲学者の西田幾多郎は、姥ヶ谷に居住し、ここからの風景を愛したということです。


行合橋

1271年(文永8年)、龍ノ口刑場日蓮は処刑されるはずでした。

しかし、突然の雷で役人の刀が折れるなどの怪異現象が起こったため、処刑が中止になったといいます。

そのときに、鎌倉にその状況を伝えるための使者と、鎌倉からの処刑中止を伝える使者が行き合ったのが、この橋だったのだそうです。


エリアナ・パブロバ
https://www.yoritomo-japan.com/eriana-paburoba.htm

七里ヶ浜は、日本バレエ発祥の地として知られています。

日本に亡命したロシア人のエリアナ・パブロバは、七里ヶ浜に住んでバレエを伝えました。


金洗沢・・・江ノ電
https://www.yoritomo-japan.com/page139kanearaizawa.htm

七里ヶ浜沿いを走る江ノ電は、明治43年に全線が開通しました。

七里ヶ浜の待避線が設けられている場所は「金洗沢」と呼ばれた場所で、源頼朝が弟義経の鎌倉入りを阻止するために関所を設けたと伝えられています。


日坂

江ノ電「鎌倉高校前駅」から鎌倉高校正門へと上る坂は、鎌倉を攻める新田義貞軍が通った古道です。


鎌倉高校前駅
https://www.yoritomo-japan.com/enoden7-kamako.htm

腰越に到着です。
http://okadosblog.blogspot.com/2010/09/blog-post_29.html

七里ヶ浜から腰越の町に入るための古道(十間坂)がわずかに残されています。


そして、七里ヶ浜の西の端「小動岬」です。
http://okadosblog.blogspot.com/2011/02/blog-post_02.html




七里ヶ浜に自生するハマヒルガオ
https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/hamahirugao.htm


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