父は源義朝:「武門の棟梁」と呼ばれた源義家の血を引く為義の子です。
母は義朝の正室で熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前。
義朝の嫡男である頼朝は、「武門の棟梁」という宿命をおって誕生しました。
源頼朝 |
1157年(保元元年)7月に起こった「保元の乱」では、父義朝が後白河上皇方について勝利を納め、その勲功により、頼朝も官界での出世を果たしています。
参考:保元の乱・・・武士の台頭
ただ・・・、源氏が政界の中心にいる時代は長続きしませんでした。
平清盛 |
「保元の乱」から3年後の1159年(平治元年)に「平治の乱」が勃発します。
13歳になっていた頼朝もこの合戦で初陣を果たしています。
『平家物語』によれば、頼朝は、先祖源義家以来源家に伝えられる「源太が産衣(うぶぎぬ)」を着用し、同じく「髭切(ひげきり)」を帯びていたと伝えられています。
※「源太が産衣」は、義家が2歳のときに着用した鎧で、「髭切」は、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったという太刀だったといいます。
しかし、「平治の乱」で父義朝は、平清盛に敗れてしまいます。
頼朝は、父義朝とともに東国へ逃れようとしますが、途中美濃で一行とはぐれ、平頼盛の追手に捕らえられます。
父義朝は、尾張国で旧臣長田忠致の裏切りに遭い殺され、兄義平・朝長もそれぞれ命を落としています。
参考:平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏
平治の乱 (平治物語絵巻) 源義朝は、平清盛の熊野参詣中を狙って三条殿に夜討ちをかけました。 |
捕らえられた頼朝は、1160年(永暦元年)2月9日、京都・六波羅へ送られます。
源氏の正嫡ですので断罪に処せられるところでしたが、平清盛の継母池禅尼の懇請で命を助けられたと伝えられています。
(参考:平清盛と源頼朝)
蛭ヶ小島 |
そして、3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島へ流されました。
頼朝の幼い弟たちも同時に処分され、希義は土佐国介良荘に流罪、今若(全成)は醍醐寺にて出家、乙若(義円)は園城寺にて出家、牛若(義経)は鞍馬寺に預けられています。
※「平治の乱」の折、範頼がどうしていたのかは確認されていません。
『吾妻鏡』によると、頼朝を配流地の伊豆へ送り届けたのは、平宗清(池禅尼の子)と祐範(頼朝の母方の叔父)だったといいます。
(参考:源頼朝と伊豆国)
「梛(なぎ)の葉の縁結び」の碑(蛭ヶ小島) |
頼朝は、1180年(治承4年)に挙兵するまでの約20年間を伊豆の地で過ごします。
その間の動静についてはほとんど不明ですが、1177年頃には北条時政の娘政子と結婚しています。
2人は伊豆山権現の保護によって夫婦となることができたといいます。
近世中期の投節の一つに、「こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を」という歌があるそうです。
当時、「梛(なぎ)の葉」を鏡の裏に入れて「お守り」にすると願い事がかなうといわれていました。
歌の中の「伊豆のお山」とは、頼朝と政子が崇敬した「伊豆山権現」のこと。
伊豆山権現の本殿前には「梛の木」が植えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆