源頼朝の父義朝は、平治の乱に加わり平清盛に敗れました。
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義朝軍には、子の義平(20歳)、朝長(16歳)、頼朝(13歳)をはじめ、鎌田政清、佐々木秀義、山内首藤俊道、上総介広常、千葉常胤、三浦義澄、熊谷直実などが従っていました。
(平治物語絵巻)
源義朝は、平清盛の熊野参詣中を狙って三条殿に夜討ちをかけますが・・・。
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平治の乱に敗れた義朝は、東国で再起するため雪の中を落ちのびます。
『平治物語』には、義朝、義平、朝長、頼朝、源重成、平賀義宣、鎌田政清、金王丸の八騎の逃避行が描かれています。
しかし、まだ幼い頼朝は、馬上で疲れ果てて居眠りをし、この一行からはぐれてしまいます。
ただ、義朝が長田忠致に暗殺されてしまうことを考えると、居眠りをして一行とはぐれたことは「頼朝にとっては運が良かった」ということになるのでしょう。
義朝に従っていた鎌田政清、金王丸は、義朝とともに長田忠致によって殺され、朝長は逃亡中に落武者狩にあった折の傷が悪化し、義朝に頼んで首を刎ねてもらい最期を遂げたのだといいます。
義朝と別れて兵を募るため北国へ向かった義平も捕らえられ処刑されています。
(鎌倉)
(愛知県美浜町)
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義朝一行とはぐれた頼朝は、後を追って美濃の青墓まで辿り着きますが、平頼盛(平清盛の異母弟)の家人平宗清に捕らえられ、1160年(永暦元年)2月9日、六波羅に送られました。
平清盛は頼朝の処刑を決定しますが、清盛の継母池禅尼の助命嘆願により助けられたといいます。
『平治物語』では、池禅尼が頼朝を助けた理由を「頼朝が死んだ我が子家盛に生き写しだったから」と描いているようです。
池禅尼に家盛に似ていると告げたのは頼朝を捕らえた平宗清だったともいいます。
また、『愚管抄』には、保元の乱の折、池禅尼が実子頼盛に対し清盛方につくよう命じたことで一門の分裂が避けられたことが記されています。
池禅尼は、清盛にとっては単なる継母ではなく、恩人ということにもなります。
処刑を免れた頼朝は、伊豆蛭ヶ小島に流されました。
(京都:六波羅蜜寺蔵)
平清盛は、伊勢平氏の棟梁平忠盛の子。
平治の乱で源義朝をはじめとする有力な源氏武士が滅んだため、武士の第一人者となりました。
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その後清盛は、1167年(仁安2年)、武士としては初めての太政大臣に昇り、「平家にあらずんば人間にあらず」とまでいわれた時代を築き上げますが、後白河法皇との間に亀裂が入るなど、次第に平氏政権がゆらぎ始めます。
1179年(治承3年)、クーデターによって後白河法皇を幽閉し、翌年には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させ独裁政治を行いますが、それに対する反発が大きくなっていきました。
(清盛の妻時子の妹滋子は、後白河上皇との間に、のちの高倉天皇を授かります。高倉天皇が即位すると清盛は娘徳子を入内させ、のちの安徳天皇が生まれています。)
(京都:神護寺蔵)
以仁王の命旨を受け取った源頼朝は、源氏再興の挙兵をします。
(上の像は、源頼朝の肖像画といわれてきましたが、近年では足利直義の肖像画ではないかといわれています。
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1180年(治承4年)4月、後白河法皇の第三皇子の以仁王が、源頼政のすすめで全国の源氏に平氏追討の令旨を発し、自らも延暦寺、園城寺、興福寺の兵をあてにして挙兵を決意します。
しかし、以仁王の挙兵は失敗に終わり、5月26日、平氏の追跡をうけ討たれました。
源頼政も討死しています(平等院の戦い)。
(平等院塔頭・最勝院)
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平等院の戦い後の6月、清盛は福原遷都を強行します。
清盛が何故このような行動に出たのかは不明ですが、延暦寺の強請もあって、その年の11月には還都を断行しています。
そんな中の8月17日、伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が挙兵します。石橋山の合戦では敗れますが、10月6日には鎌倉に入りました。
一方清盛は、平維盛を大将とする軍を派遣しますが、10月20日の富士川の合戦で頼朝を中心とする東国軍に敗れ、維盛は敗走しています。
11月26日、天皇以下を奉じて福原から京都に戻った清盛は、12月18日、後白河法皇の幽閉をといて政権を法皇に返し、反平氏勢力の討伐に精力傾けますが、12月28日の平重衡を大将として行われた「南都焼討」は、平氏を四面楚歌の情勢にしてしまいます。
そして、1181年(治承5年)2月27日、清盛は熱病に倒れます。
死期の近づいた清盛は、後白河法皇に使いを送り「愚僧の死後は万事宗盛に仰せつけられ、宗盛と御相談のうえお取り計らいくださいますように」と奏上しますが、法皇からは明確な答えがありませんでした。
清盛は、恨みを抱えながら「天下のことは宗盛の命を第一とせよ。宗盛の命に異論をとなえてはならない」と遺言し、閏2月4日に亡くなったといいます。
64歳でした。
『平家物語』は、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」という遺言を残したと伝えています。
やがて、京は木曽義仲に奪われ平氏は都を落ちます(1183年(寿永2年))。
その後、平氏は都に戻ることなく、1185年(文治元年)3月24日、頼朝によって壇ノ浦に滅ぼされました。
1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、鶴岡八幡宮を中心に新たな武家政権の街を整備します。
頼朝が創り上げた武家の都「鎌倉」は、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅ぶまでの約150年の間、武家政権の中心地として栄えました。
ただし、源氏の政権は頼朝、頼家、実朝の三代で終わっています。
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