別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年2月1日水曜日

平清盛の最期・・・平氏の没落

1181年(治承5年)閏2月4日、平氏の独裁政権を実現した平清盛が、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなります(享年64歳)。

その前月末から病に倒れていました。大陸から伝来したマラリアに罹ったのではないかといわれています。

※九条兼実の『玉葉』には「通風」、藤原定家の『明月記』には「動熱悶絶」とあるようです。


『吾妻鏡』は、

「3日以後に葬儀行い、遺骨は播磨国山田法華堂に納め、7日毎に仏事をして、毎日は行わないように。京都で追善をしてはいけない。そして、子孫は東国を降伏させる事」

と遺言したと伝えています。


※清盛の墓所と伝わっている場所は、何ヶ所かあるようです。

※『平家物語』は、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言したと伝えています

平家物語が描く平清盛の死)。

※『玉葉』は、「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と遺言したと伝えています。



平清盛
(京都:六波羅蜜寺蔵)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平清盛は、1179年(治承3年)11月20日、後白河法皇を幽閉し、娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ平氏による独裁政治を始めます。

清盛の死は、それからわずか1年と数ヶ月後の事でした。その間、以仁王の挙兵・福原遷都・源頼朝の挙兵・平安京還都・南都焼討と様々な出来事がありました。

平氏による独裁政治は、貴族・寺社・武士からの反発を受け、全国的な反平氏勢力の蜂起につながっていたのです。


武家政権を樹立した平清盛


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~以仁親王の令旨~

1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第二皇子以仁王が源頼政と謀って、全国の源氏に平氏打倒の令旨を発し、自らも挙兵します。

以仁王の挙兵は失敗に終わっていますが、令旨は、4月27日に伊豆の源頼朝のもとにも届いています。

伊豆蛭ヶ小島(源頼朝・政子夫妻の像)
1180年(治承4年)4月27日、
伊豆に流されていた源頼朝のもとに以仁王の令旨が届きます。

平清盛と源頼朝


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~福原遷都~

そんな情勢のなかの5月30日、清盛は都を福原(現神戸市)に遷すことを発表し、6月2日には遷幸が強行されました。

その動機は今日でもはっきりとしないようですが・・・

福原は、清盛の別荘があった所で、隣接する大輪田泊は、清盛が日宋貿易を行った港です。

日宋貿易によって巨額の富を築いた清盛は、その拠点である福原に新しい都を創ろうと考えたのでしょうか・・・。

それとも、東大寺・興福寺・延暦寺(南都北嶺)の僧兵勢力から遠ざかりたかったのでしょうか・・・。

海外貿易(日宋貿易)によって国を変えようと考えていたともいわれています・・・。

(※清盛が行った日宋貿易は、遣唐使の派遣が中止されて以来の日中交渉でした。)


和賀江嶋
鎌倉時代、幕府は材木座に和賀江嶋の築港を許可し、
民間による日宋貿易が行われていました。
平清盛の大輪田泊が現存しない今、和賀江嶋は、
我が国最古の築港遺跡となっています。
今でも材木座海岸には、
当時の陶磁器片が打ち上げられています。
最古の築港遺跡~和賀江嶋~


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~源頼朝の挙兵~

8月17日、20年前に清盛が伊豆流罪に処した源頼朝が挙兵します。

伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った頼朝は、相模国に進軍し、石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親に敗れますが、海路安房に渡り軍勢を整えます。

そして、鎌倉に入った頼朝は、10月20日、富士川の戦いで平氏軍を退けています(東征軍の敗走・・・富士川の戦い)。

一方、清盛は、強行した福原遷都が失敗に終わり、11月23日に還都を発表し、26日には安徳天皇・後白河法皇をはじめ平家一門も京都に帰っています。


鶴岡八幡宮
鎌倉に入った源頼朝は、
鶴岡八幡宮を中心に街を整備していきます。
1180年(治承4年)12月12日には新亭も完成し、
「武家の都」が誕生しました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~南都焼討~

12月25日、清盛は、興福寺東大寺の反平氏勢力を一掃するため、平重衡を南都に向かわせ、28日には南都を焼き尽くしてしまいます。

「南都焼討」と呼ばれている事件ですが、おそらく清盛も派遣された重衡も、東大寺や興福寺まで焼き払うことは考えていなかったでしょう・・・

しかし、結果、全てを焼き尽くしてしまったことから、清盛は「仏敵」といわれてしまうことになります。

そして、平氏は四面楚歌の状態に置かれてしまいました。


教恩寺
「南都焼討」の平重衡は、
一ノ谷の合戦で捕らえられ鎌倉に送られてきます。
源頼朝は重衡を厚くもてなし、
平氏一門の供養のために阿弥陀如来像を与えたといいます。
教恩寺の本尊は、その像だと伝えられています。
南都焼討の平重衡と鎌倉~教恩寺~


こうして、平氏が滅亡の途を歩き始めた1180年(治承4年)が終わります。

年が明けても、反平氏勢力の蜂起は続き、清盛はそれらの討伐に全勢力を注ぐことになります。

しかし、その効果をみることなく病に倒れ、閏2月4日に亡くなりました。


九条兼実は『玉葉』に、

「本来ならば戦場に骸(むくろ)をさらずべきであるのに、弓矢刀剣の難を免れて病床に死んだのは運のよいことだ。しかし神罰冥罰はこれから起こるだろう」

と記しているようです。

その予言どおり、平氏は1183年(寿永2年)には都落ちし、その後都に帰ることなく、1185年(元暦2年)、壇ノ浦で滅亡しました。


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