鎌倉時代の材木座は、物資の集散地でした。
1223年(貞応2年)に鎌倉を訪れた『海道記』の著者はその光景を、
「数百艘の舟、とも綱をくさりて大津の浦に似たり。
千万宇の宅、軒をならべて大淀のわたりにことならず」
と述べています。
しかし、材木座の海岸は遠浅だったことから多くの海難事故が発生していました。
そのため、1232年(貞永元年)に築かれたのが和賀江嶋です。
『吾妻鏡』によれば、勧進僧・往阿弥陀仏が港の建設を申請し、三代執権北条泰時がそれを許可し、そして支援したとされています。
工事は、7月15日から始まって、8月9日に終了したといいます。
沖に向かって積まれた玉石は、相模川・酒匂川や三浦半島・伊豆の海岸などから運ばれたものと考えられています。
満潮時にはほとんど海面下に沈んでしまいますが、潮が引いたときには、桟橋状に積まれた玉石が姿を現します。
宋の貿易船なども着岸し、物流の拠点として大きな役割を果たしました。
材木座海岸では、現在でも当時の陶磁器片などが打ち上げられています。そして、現在でも数艘の漁船がつながれています。
昭和43年には国の指定史跡となっています。 |
飯島岬の海岸沿いの路傍には鎌倉十井の一つ「六角ノ井」があります。
源為朝が大島から放った矢がこの井戸に落ちたという伝説が残された井戸で、「矢の根ノ井」とも呼ばれています。
その先が、然阿良忠が光明寺を開く前にとどまったという正覚寺です。
飯島白髭社
和賀江嶋
https://www.yoritomo-japan.com//page135wakaejima.htm
鎌倉手帳