別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年1月13日金曜日

源頼朝の命日:頼朝がのこしたもの・・・

源頼朝は、1180年(治承4年)8月に挙兵します。

石橋山の戦いでは敗れてしまうものの、安房に渡り、10月には大軍を率いて鎌倉に入りました。

(参考:源頼朝の鎌倉入り~源氏再興の挙兵~

しかし・・・、鎌倉には・・・、頼朝の遺跡がほとんどありません・・・。



~武家の都「鎌倉」・・・鎌倉幕府~

頼朝の鎌倉入りを可能にしたのは、先祖頼義義家義朝らによって東国の基盤が築き上げられていたことによります。

東国の武士は、自分たちの所領を安堵してくれるリーダーを求めていました。だからこそ源氏の嫡流である頼朝に期待したのでしょう。

こういう意味からすると、「頼朝の挙兵」は、頼朝自身が源氏再興のために挙兵したというよりも、「東国武士たちが高貴な家柄の頼朝を旗にした挙兵」といった方がいいのかもしれません。

そして、頼朝と東国武士は鎌倉に武家の都を築きました。

(参考:源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~


大倉幕府跡


~鶴岡八幡宮~

鎌倉に入った頼朝は、まず鶴岡八幡宮を現在の地に遷座し、大倉の地に御所を構え、「鎌倉の主」となります。

(参考:東国の主君「鎌倉殿」  源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~


鶴岡八幡宮

鎌倉の街造りは鶴岡八幡宮を中心に進められていきます。


十王岩からみた鎌倉の街


~勝長寿院~

平氏が滅亡した1185年(元暦2年)には、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院が創建されます。

「黄金の阿弥陀仏」が安置されされた壮大な寺院だったようです。

残念ですが、今はその跡地と思われる場所に碑が残されているだけとなっています。

(参考:源義朝の遺骨が葬られた勝長寿院


勝長寿院


~静の舞と流鏑馬~

1186年(文治2年)、鶴岡八幡宮では、源義経の愛妾静御前が舞を披露しました。

静の舞
4月の「鎌倉まつり」では、
鶴岡八幡宮舞殿「静の舞」が披露されています。


1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮では放生会が行われ「流鏑馬」が奉納されました。

この放生会が例大祭のはじまりといわれています。

(参考:鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬

流鏑馬
9月の例大祭の最終日に奉納されています。


~永福寺~

頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年(建久3年)には、中尊寺二階堂大長寿院を模した永福寺(二階堂)が完成します。

『東関紀行』には、「二階堂永福寺はことにすぐれたる寺なり」と記されているように、美しく壮大な寺院だったようです。

(参考:永福寺跡の散策

永福寺跡


~法華堂~

1199年(建久10年)1月13日、源頼朝は亡くなります。53歳でした。

亡骸は、自らが建てた持仏堂に葬られ、以後、持仏堂は法華堂と呼ばれるようになります。

(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~

その法華堂も今は残されていません。

源頼朝墓

法華堂の跡といわれる場所に建てられている多層塔が頼朝の墓です。

この多層塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、勝長寿院にあったものを移したものといわれています。


鎌倉手帳
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