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栃木県那須野にある「殺生石」には次のような伝説が残されています。
鳥羽上皇は、玉藻前(たまものまえ)を寵愛していました。
玉藻前は、天下一の美女として知られていたそうです。
ただ、その美女は、白面金毛九尾の狐が人間の女性に化けていたものでした。
鳥羽上皇は、次第に病に臥せるようになります。
医師にも原因がわかりませんでした。
しかし、陰陽師の占いによって玉藻前が原因であることが判明します。
正体を暴かれてしまった玉藻前は、白面金毛九尾の狐に姿を変え、宮中から脱走します。
(※玉藻前の正体を暴いた陰陽師は、安倍晴明ともいわれています。)
その後、白面金毛九尾の狐に姿を変えた玉藻前は、那須野で発見され、鳥羽上皇が差し向けた討伐軍によって退治されました。
その討伐軍の中には、のちに源頼朝の挙兵に協力する三浦義明、千葉常胤、上総広常がいました。
白面金毛九尾の狐は、三浦義明の矢で脇腹と首筋を貫かれ、上総広常の長刀でとどめを刺されたと伝えられています。
(来迎寺)
(朝夷奈切通)
しかし、息絶えた白面金毛九尾の狐は、巨大な石と化し、近づく人や鳥獣がみな死んでしまったといいます。
そのため、「殺生石」と名付けられて恐れられていました。
その後、南北朝の時代となって、源翁禅師(げんのうぜんじ)が持っていた杖でこの「殺生石」を破壊すると、災いが止んだそうです。
このとき、源翁禅師の持っていた杖が「かなづち」のような形をしていたので、「かなづち」の別名を「玄能(げんのう)」と呼ぶのだそうです。
源翁禅師が叩き割った殺生石は3つに割れました。
源翁禅師は、その一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に小さな御堂を建てて安置したのだといいます。
江戸時代になると、この地蔵菩薩を篤く信仰していた甲良豊後守宗広の夢の中に地蔵菩薩が現れ、衆生済度の霊場「真如堂」へ移すようにとのお告げがありました。
宗広はその夢告に従って地蔵菩薩を真如堂に移したそうです。
そのため、真如堂の地蔵菩薩像は「鎌倉地蔵」と呼ばれています。
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鎌倉との繋がりを求めて!