7歳のときに豊臣秀頼と結婚して大坂城に入りました。秀頼とは夫婦仲睦まじく暮らしていたといいます。
しかし、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城してしまいます。
千姫は救出されますが、秀頼は自害。
このとき、秀頼と側室との間に生まれた奈阿姫も処刑されそうになりますが、千姫は助命嘆願を行い、自分の養女とすることでを奈阿姫を救いました。
そして、奈阿姫は出家して「天秀尼」と号し、東慶寺に入ります(7歳)。
一方、千姫は桑名藩の本多忠刻と結婚しますが、忠刻が亡くなった後、江戸城に入って出家しました(天寿院)。
1643年(寛永20年)には、養女天秀尼のいる東慶寺の伽藍を再建しています。
1666年(寛文6年)、江戸で死去(享年70歳)。
千姫に助けられ東慶寺に入ることとなった天秀尼は、徳川家康に「何か願いはないか」と聞かれ、縁切寺法がなくなることのないよう頼んだといいます。
その後、東慶寺の「縁切寺法」は、1872年(明治5年)まで存続しています。
参考:女性を救った駆け込み寺
女性救済の尼寺を中興した天秀尼は、1645年(正保2年)に亡くなります(37歳)。
天秀尼の死によって豊臣秀吉の直系は断絶しました。
現在、東慶寺では「天秀尼展」が開催されています。