法華堂跡の頼朝墓といわれる石塔は、1779年(安永8年)に島津重豪が建てたものです(何者かに破壊されたことから、平成2年に修復されているようです。)。
頼朝の墓入口(六浦道) 六浦道(横大路)からの頼朝墓の入口です。 |
こんな案内標識が建てられています。 |
大倉幕府跡碑
清泉小学校の傍らに建てられた大倉幕府跡の石碑です。
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この辺り一帯が大倉幕府跡です。 |
頼朝墓下の白旗神社前からみた参道です。 最初の路地を・・・ 右に行くと西御門の石碑 左に行くと東御門の石碑 ・・・が建てられています。 |
参道の桜並木 |
(参考:大倉幕府跡の桜並木)
法華堂跡 |
石段を上がると頼朝墓です。
この石段は頼朝が亡くなった時の年齢と同じ53段なのだそうです。
法華堂は、頼朝の生前に持仏堂として建てられ、聖観音を本尊としていました(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~)。
のちに法華堂が廃され供養塔(頼朝墓)が建てられたものと考えられます。
源頼朝墓 |
江戸時代には頼朝墓の下に法華堂が建てられていましたが、明治の神仏分離によって白旗神社となっています。
法華堂跡碑 |
法華堂は、武士にとっては誰にも手を出せない聖地でした。
1213年(建保元年)の和田合戦時には、源実朝が避難しました。
1247年(宝治元年)の宝治合戦では、三浦泰村一族ら約500人が籠もって自刃しました。
大江広元墓の入口 |
頼朝墓の東側になります。
この石段を上がると平場となります。
北条義時の法華堂跡 |
この平場は、平成17年の発掘調査で、北条義時の法華堂跡である可能性が高まりました。
左側の崖下には三浦泰村一族を供養するやぐらがあります。
そして奥の階段を上がっていくと三つのやぐらが並んでいます。
中央が大江広元、左側が子の毛利季光、右側が島津忠久のものといわれています。
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