別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2010年11月10日水曜日

源頼朝墓(法華堂)の参道

源頼朝大倉御所(大倉幕府)の裏山には、頼朝持仏堂がありました。頼朝の死後、「法華堂」と称されたといわれています。

法華堂跡の頼朝墓といわれる石塔は、1779年(安永8年)に島津重豪が建てたものです(何者かに破壊されたことから、平成2年に修復されているようです。)。


頼朝の墓入口(六浦道)
六浦道横大路)からの頼朝墓の入口です。


こんな案内標識が建てられています。


大倉幕府跡碑
清泉小学校の傍らに建てられた大倉幕府跡の石碑です。


この辺り一帯が大倉幕府跡です。


頼朝墓下の白旗神社前からみた参道です。
最初の路地を・・・
右に行くと西御門の石碑
左に行くと東御門の石碑
・・・が建てられています。


参道の桜並木


法華堂跡


石段を上がると頼朝墓です。

この石段は頼朝が亡くなった時の年齢と同じ53段なのだそうです。

法華堂は、頼朝の生前に持仏堂として建てられ、聖観音を本尊としていました(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~)。

のちに法華堂が廃され供養塔(頼朝墓)が建てられたものと考えられます。


源頼朝墓

江戸時代には頼朝墓の下に法華堂が建てられていましたが、明治の神仏分離によって白旗神社となっています。


法華堂跡碑

法華堂は、武士にとっては誰にも手を出せない聖地でした。

1213年(建保元年)の和田合戦時には、源実朝が避難しました。

1247年(宝治元年)の宝治合戦では、三浦泰村一族ら約500人が籠もって自刃しました。


大江広元墓の入口

頼朝墓の東側になります。

この石段を上がると平場となります。


北条義時の法華堂跡

この平場は、平成17年の発掘調査で、北条義時の法華堂跡である可能性が高まりました。

左側の崖下には三浦泰村一族を供養するやぐらがあります。

そして奥の階段を上がっていくと三つのやぐらが並んでいます。

中央が大江広元、左側が子の毛利季光、右側が島津忠久のものといわれています。







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