別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年8月15日金曜日

鎌倉青蓮寺の施餓鬼法要~8月16日 鎖大師御開帳~


8月16日は青蓮寺の本尊「鎖大師」(木造弘法大師坐像)が開帳される日。




青蓮寺の木造弘法大師坐像は、手足が動くように作られていることから「鎖大師」と呼ばれています。

鎌倉独特の裸形彫刻で絹の衣を纏っています。

明治の神仏分離までは鶴岡八幡宮等覚院に置かれていましたが、神仏分離が出されると松源寺に移されました。

その後、像が一人で壽福寺へ行き、しばらく壽福寺に滞在。

やがて、青蓮寺の住職の夢枕に現れ「迎えに来るように」とのお告げがあったため青蓮寺に移されたのだとか。


開帳は、11:00~15:30予定です(ご確認下さい。)。



鎖大師御開帳


青蓮寺









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


壽福寺

鶴岡八幡宮


神仏分離と鶴岡八幡宮


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2025年8月14日木曜日

8月16日は閻魔大王の休日~鎌倉:円応寺の送り盆~


8月16日は閻魔大王がお休みになる日(閻魔縁日)。

閻魔大王は、地獄の釜の蓋を開くよう命じ、餓鬼たちを解放します。

閻魔大王の寺・円応寺では水施餓鬼会が行われ、経木に水をかけて餓鬼たちを供養します。

※施餓鬼法要は14:00からですが、参加は事前申込(一般参拝不可)。



圓應寺の閻魔大王


円応寺は、1250年(建長2年)、長谷に創建され、新居閻魔堂と呼ばれていました。

鎌倉西方の境界だった長谷には墓地が置かれ、閻魔大王をはじめとする死後に出会う十王が祀られたのだといいます。

新居閻魔堂は材木座に移された後、山ノ内に移され、建長寺の塔頭円応寺となっています。

そのため、「閻魔縁日」は「新居の閻魔さま」といわれてきました。

本尊の閻魔大王運慶が彫ったものと伝えられています。



閻魔縁日


圓應寺の十王像

運慶


円応寺








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2025年8月13日水曜日

成朝~源頼朝が鎌倉に呼んだ奈良仏師の正嫡~


興福寺


成朝は、平安時代末から鎌倉時代にかけて興福寺を拠点に活躍した奈良仏師の正系。

ただ、成朝の真作とされている仏像は現存していません。


奈良仏師は、藤原道長法成寺の造仏を担当して、仏師としてはじめて僧綱位(法橋)を得た定朝の流れをくむ仏師集団。

定朝以後、直系の院派・円派及び奈良仏師には僧綱位が与えられてきましたが、奈良仏師では・・・

正系の成朝より先に法橋の地位を得た仏師がいます。

それは、運慶の父康慶。

1177年(治承元年)、康慶は後白河法皇蓮華王院に建立された五重塔の造仏を任されて法橋の地位を得ました。

1164年(長寛2年)に蓮華王院が創建された際に中心となって造仏にあたったのは成朝の祖父・康助でしたが、五重塔の造仏は康助の弟子といわれている康慶だったのです。

では、何故、康慶だったのか?

詳しいことは不明ですが、康慶は単なる弟子ではなく成朝の祖父・康助あるいは父の康朝と何らかの血縁関係にあったと考えられているようです。

そして、奈良仏師の後継者は成朝ではなく康慶という動きがあったのかもしれません。


その後・・・


1180年(治承4年)12月28日、平重衡南都焼討により奈良仏師が拠点としていた興福寺が焼失します。

翌年から興福寺の復興事業が始まりますが、無位の成朝は金堂・講堂の造仏をめぐって京都仏師の院尊(院派)や明円(円派)と争いますが、任されたのは食堂の造仏でした。

興福寺の信頼を得ていたという法橋の康慶は南円堂の造仏を任されています。


しかし、成朝は食堂の造仏を開始しないまま、1185年(元暦2年)5月21日、源頼朝の南御堂(勝長寿院)の本尊造仏のため鎌倉に下向(『吾妻鏡』)。

10月21日には、金色の阿弥陀仏が勝長寿院に運び込まれていますが、成朝はその後も鎌倉に滞在し、翌年3月2日には、興福寺東金堂の造仏を院派の院性が望んでいることを知って、頼朝に東金堂造仏の権利が自分にあることを訴えています。

頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出していますが・・・

食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に僧兵が飛鳥山田寺から奪取したものが充てられています。

鎌倉から奈良に戻った後の成朝の行動は不明ですが、1194年(建久5年)、「金堂弥勒浄土」造仏の功により、法橋に補任されたようです。

ただ・・・

南円堂の造仏を担当した康慶は、その上の法眼になっていました。

翌年には康慶の子運慶も法眼になっています。


成朝の没年は不明ですが、「金堂弥勒浄土」の造仏が記録に残されている最後の事績。

そして、康慶・運慶をはじめとする慶派の時代が到来します。

成朝は、時世に恵まれなかったのかもしれませんが、その作品が現存していない今、その実力を知ることはできません。


最後に、源頼朝は、何故、勝長寿院の造仏を康慶や運慶ではなく成朝に依頼したのか?

それは、成朝が定朝の嫡流だからといわれています。

系統や血筋を重視する頼朝らしい選び方だったのかも。




興福寺


興福寺南円堂

興福寺北円堂

興福寺中金堂


運慶


南都焼討


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間








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南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


東大寺


歴史めぐり源頼朝


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2025年8月12日火曜日

運慶の子湛慶の千手観音~三十三間堂~




三十三間堂の本尊は木造千手観音坐像

造仏を担当したのは奈良仏師運慶の子湛慶。

千手観音坐像胎内の銘文には「康助四代御寺大仏師」とあるようですが・・・

奈良仏師は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を造立した定朝の孫頼助(らいじょ)を始祖とし、興福寺を拠点に活動していた仏師集団。

康助(こうじょ)は頼助の子。

康助は、主に京都で活動し、1164年(長寛2年)に創建された三十三間堂の造仏を指揮したと考えられています。

湛慶は、康助から四代目の大仏師(康助→康朝→康慶→運慶→湛慶)。



三十三間堂の仏像

三十三間堂








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運慶


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


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2025年8月11日月曜日

源頼朝の永福寺にも運慶仏があった?


かつて鎌倉にあった永福寺は、1192年(建久3年)、源頼朝奥州平泉中尊寺毛越寺無量光院などを模して建てた寺院。

1405年(応永12年)に焼失した後、廃絶したものと考えられ、現在は基壇と苑池が復元されています。




発掘調査では、中心に二階大堂、南に阿弥陀堂、北に薬師堂が回廊(複廊)で結ばれ、阿弥陀堂の南と薬師堂の北には苑池へと延びる翼廊を従えていたことが確認され、それぞれの翼廊の先端は釣殿となっていたと考えられています。

では、永福寺建立に関わった大工は・・・

遺物の軒瓦の中には、鶴岡八幡宮北条時政が伊豆に建立した願成就院のものと同じ型を使って作られたものも含まれていて、時政が願成就院を建てた大工や瓦職人を頼朝に斡旋したのだという推測が成り立つのだとか。


願成就院と言えば運慶

願成就院の阿弥陀如来像・毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子・制咤迦童子の諸像は、胎内造像銘札により運慶の真作と判明しています。

そして・・・

近年では永福寺の造仏も運慶が担当したとする説が有力となってきています。

源実朝誕生時の祈願所となった横須賀の曹源寺の十二神将像は、運慶周辺の仏師によるものと考えられ、永福寺の薬師堂にあった十二神将像の模刻と考えられています。




永福寺跡


運慶


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間








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2025年8月10日日曜日

長谷寺へ朝詣り 2025/08/10 ~鎌倉の四万六千日~


8月10日は鎌倉の四万六千日



今年も長谷寺で御本尊の御影を授けて頂きました。




長谷寺坂東三十三箇所第四番札所。

四万六千日は、坂東三十三箇所第十三番札所の浅草寺で始められた観音菩薩の特別な縁日で、京都の清水寺千日詣りがもとになっているようです。

この日、観音さまにお参りすると46000日分の功徳が得られるとされています。

諸説あるようですが・・・

46000日÷365日=約126年

四万六千という数は「米1升が4万6千粒ある」ということに由来すると言われ、これを「人間の一生」にかけているのだとか・・・。

鎌倉の四万六千日は、朝早くからお詣りをすることから「朝詣り」ともいわれてきました。

長谷寺では毎年、午前4時開門で午前8時まで自由拝観。

本尊の十一面観世音菩薩の足に触れることのできる「御足参り」も行われます。



四万六千日



千日詣り 京都清水寺

四万六千日・ほおずき市


長谷寺








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2025年8月9日土曜日

8月10日の深夜から響き渡る読経。~鎌倉覚園寺の黒地蔵縁日~




覚園寺の「地蔵菩薩立像」は「黒地蔵」と呼ばれています。

地獄では、罪人が猛火による「責め苦」にあうそうです。

「黒地蔵」は、地獄で火に苦しんでいる者を見て、少しでも罪人の苦しみを和らげてあげようと、自らが獄卒(地獄の役人)となって火焚きを行いました。

そして、火を焚くうちに、その全身は黒く焦げてしまったのだといいます。

8月10日は黒地蔵の縁日。

深夜0時から開門され、正午頃まで境内には絶え間ない読経が響き渡ります。


朝粥

黒地蔵縁日では朝粥の出店も予定されています。




黒地蔵盆



覚園寺








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ぼんぼり祭
8月6日~9日


鎌倉の四万六千日
8月10日


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