別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年12月18日水曜日

2025は巳年!京都:六波羅蜜寺の弁財天~都七福神~


六波羅弁財天

六波羅蜜寺の弁財天堂に置かれているのは、都七福神の一つ六波羅弁財天

崇徳上皇の夢告によって造立されたもので、上皇に寵愛された阿波内侍が自邸を寺にして祀っていたものなのだとか。




こちらは銭洗い弁財天

洗った銭はお守りにしてもらい貯えておくのだとか・・・






一条天皇の皇后宮・藤原定子は、1000年(長保2年)12月15日、平惟仲の屋敷で媄子内親王を出産した後、翌16に崩御。

藤原行成の『権記』によると・・・

23日、遺体は六波羅蜜寺に移され、27日に鳥辺野に葬られたのだといいます。

何故、六波羅蜜寺だったのかは分かりませんが、六波羅蜜寺は葬送地・鳥辺野の入口と言われる六道の辻にある寺。

六道の辻に捨てられた死体を供養するために、空也上人が建てた西光寺を始まりとしています。



京都は七福神発祥の地
都七福神









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源義経をめぐる京都

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大蛇を祀る百々神社には紫式部の歌碑がある!2025年は巳年。




近江八幡市にある百々神社は、人々を悩ませて退治された大蛇を祀る社。

蛇除け、喘息封じの神として信仰されているようです。

ただ、2025年は蛇年。

密かに注目を集めるのかも。


紫式部歌碑

社前には紫式部が詠んだ

「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」

の歌碑が建てられています。

この歌は、越前国から帰京するときに沖島を望んで詠んだとされる歌。













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琵琶湖で紫式部・源氏物語


紫式部と越前国

紫式部の越前下向


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2025新春 藤沢七福神巡り


2025年(令和7年)の 「藤沢七福神巡り」(藤沢市観光協会主催)は、1月10日(金)と1月19日(日)。

受付開始は12月18日(水)午前9時。

参加申込は、電話で「ふじさわ宿交流館」へ。





2025年(令和7年)から時宗総本山遊行寺宇賀弁財天も福神となりました。

藤沢は時宗開祖の一遍ゆかりの地。

遊行寺の宇賀弁財天は徳川家康の先祖といわれる得川有親の守り本尊。




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巳年だ!蛇だ!弁財天だ!



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吾妻山 菜の花ウォッチング2025




「菜の花ウォッチング」は、吾妻山に植えられた6万株の早咲きの菜の花の開花に合わせて行われるイベント。

2025年はデジタルスタンプラリーが開催される他、レシートラリー・駅からハイキングも同時開催。

知足寺と川勾神社では雛飾り展、週末には地場産品等の販売会・太鼓演奏・ダンスなどが開催される予定です。




吾妻山:菜の花








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2024年12月17日火曜日

嵐が来るわ!道長の死と武士の台頭。~光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」の最終回では、藤原道長が最期を迎える時、紫式部は道長に「戦のない泰平の世を護られました」と語っていました。

ただ、最後の言葉は「嵐がくるわ」でした。


1027年(万寿4年)12月4日、道長が薨去すると、翌年、東国では平忠常が反乱を起こします(平忠常の乱)。

忠常は高望王流桓武平氏

「光る君へ」に登場した双寿丸が仕えた平為賢と同族。

東国で「新皇」を称して反乱を起こし、940年(天慶3年)に平貞盛と藤原秀郷らに討ち取られた平将門の孫。

将門以来の大規模な反乱となった平忠常の乱は、摂関政治を終わらせるきっかけとなります。

これは、道長の時代に起こった刀伊の入寇での朝廷の無策と、活躍した武者(のちの武士)たちの恩賞が不十分であった事が原因の一つと考えられています。


平忠常の乱を鎮めたのは、経基流清和源氏の一流河内源氏の祖源頼信

頼信は、道長四天王の一人でした。

1051年(永承6年)には、陸奥国で勢力を広げていた安倍頼良と陸奥守・藤原登任の間で戦いが起こりますが、この反乱を鎮めたのは、河内源氏二代棟梁の頼義とその子義家(前九年の役)。

義家は、その後の後三年の役(1183-1087)でも活躍しますが、朝廷は私闘と判断して恩賞を与えなかったたため、義家は従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて「武神」と称えられています。

そして、1086年(応徳2年)、白河上皇が院政を開始し、200年以上続いた摂関政治が終わります。

ただ、院政期に特別な扱いを受けたのは、東国の反乱に活躍した河内源氏ではなく、伊勢平氏でした。

伊勢平氏も高望王流桓武平氏

伊勢国を拠点とした一族ですが、地盤を築いたのは道長四天王の一人だった平維衡。

そして、子孫の平清盛が1159年(平治元年)の平治の乱源義朝を倒したことで源氏は没落し、平氏の勢力が拡大されます。

清盛は、後白河院政下で武士としては初めてとなる太政大臣となり、さらに我が国初の武家政権を樹立しました。

それは源頼朝の武家政権へと繋がっていくことになります。


参考までに・・・

頼朝は、平忠常の乱を鎮圧した源頼信から数えて七代目。

平治の乱後、頼朝は処刑される運命にありましたが、それを救ったのが清盛の継母池禅尼でした。

池禅尼刀伊の入寇で活躍した藤原隆家の子孫。

頼朝とともに鎌倉に武家政権を創った北条時政政子義時は、高望王流桓武平氏の平直方の子孫といわれています。

頼朝の源氏再興の挙兵を援けた房総半島の千葉常胤上総広常は、平忠常の子孫でした。




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