別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2011年1月8日土曜日

大注連祭~白山神社:鎌倉~

今泉の白山神社では、毎年1月8日に大ハガチ(ムカデ)に模した大注連を張る「大注連祭」が行われます。

相模地方では、ムカデのことを「ハガチ」と呼んできたそうです。そして、ムカデは毘沙門天の使いとされ白山神社の守護虫と伝えられてきました。

大注連祭は「豊年祈願の祭」と伝えられているようですが、ムカデと豊年との関係は定かではないようです。

ただ、今泉にはムカデの捕殺禁止の慣習が伝えられているといいますので、昔から農業とムカデには何らかの関係があったのかと推測できます。

「ムカデが農作物の害虫を食べてくれるため」という説もあります。


朝9時頃から祭事の準備が始まります。
神社の入口には、大注連を綯うための藁が積んでありました。

昨年張られた大注連です。
これはとりはずされ、左義長の際に炊きあげられます。


白山神社
1191年(建久2年)に源頼朝が京都鞍馬寺から毘沙門天を勧請し、
毘沙門堂を建立したことにはじまると伝えられています。



 氏子が持ち寄った新藁で大注連が綯われます。

長さ6㍍にもなる三つよりの注連です。


一方で、ムカデの足が作られます。


ムカデの足
7本のもの、5本のもの、3本のものがあって、
この7・5・3を1組として合計12組の足が作られます。

出来上がった注連が吊されます。

御幣が刺された注連に足がかけられます。

これで飾りが終了しました。
大注連に7・5・3(15本1組)の足が12組つるされています。
12時頃完成しました。
特殊技術が必要な大変な作業です。


そして、大注連の下で神職による神事が行われます。


続いて、古い注連を炊き上げる左義長神事が行われました。


かけられた大注連は、翌年のこの日(1月8日)までそのままにされます。

白山神社は、古くから毘沙門堂として親しまれ、
白山神社の下にある今泉寺が別当寺を務めていました。
明治の神仏分離によって「白山神社」と改められています。

毘沙門天



今泉寺

酔亀亭天廣丸の歌碑


白山神社




大注連祭~鎌倉手帳~
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鎌倉手帳
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2011年1月7日金曜日

鶴岡八幡宮の上宮(本宮)

鎌倉の中心にあり、武家政権の象徴的な存在でもあった鶴岡八幡宮は、

1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をし、関東武士団を従えて鎌倉入りを果たした源頼朝によって創建されました。




鎌倉入った頼朝が最初に行ったのが、先祖源頼義が勧請した由比郷の鶴岡若宮(元八幡)を現在地の小林郷に遷すことでした。

これが、現在の鶴岡八幡宮ということになります。

当時の鶴岡八幡宮は、神仏習合の宗教施設で、1182年(寿永元年)に造営された源平池などは、浄土思想の影響を受けていると考えられています。

また、1189年(文治5年)には、亡き母(由良御前)の供養のために塔を建立したことが『吾妻鏡』に記されています。この塔は、五重塔だったと考えられています。

(参考:鶴岡八幡宮の五重塔


しかし、この鶴岡八幡宮が1191年(建久2年)3月4日に焼失してしまいます。

未明に小町大路で発生した火災は、強風にあおられ大火災となりました。

北条義時などの御家人の屋敷を焼き尽くし、鶴岡八幡宮にもその火が燃え移りました。

頼朝は甘縄の安達盛長邸に避難したと伝えられています(安達盛長邸は、長谷の甘縄神明神社の辺りにありました。)。

(参考:建久2年の鎌倉大火・・・鶴岡八幡宮が灰燼と化す


3月6日、鶴岡八幡宮に参った頼朝は、焼け残った礎石を見て涙したと伝えられています。

当時の考えとしては、神社仏閣の焼亡というのは、その神や仏の威光が衰えたことを意味していたともいわれますので、頼朝の「武家政権の象徴が燃えた」ということのショックは大きかったことと思われます。

ただ、頼朝の行動はす早く、焼失後すぐに再建に向けた工事が行われました。

そして、改めて石清水八幡宮が勧請され、現在のような上宮(本宮)下宮(若宮)の上下二段の構成となる社殿が再建されました。


本宮

火災後、大臣山の中腹を削り取る工事が行われ、そこに本宮が建てられました。

町で起こった火災から防ぐ目的で高台に本宮が造られたと考えられています。


回廊

鶴岡八幡宮は、本宮若宮ともに広い回廊を巡らしていたのが特色でした。

石清水八幡宮と同型式のものです。

現在、本宮の回廊には7基の神輿が安置され、宝物殿にも使用されています。
(神輿は、3基が本宮の神輿で、4基が若宮の神輿です(参考:神幸祭))。




再建された鶴岡八幡宮では、1191年(建久2年)11月21日(旧暦)に遷宮の儀が行われ、「宮人の曲」を唱えさせるために多好方が呼ばれています。

その様子は12月16日(新暦)に行われている「御鎮座記念祭」で再現されます。

後白河法皇から下賜されたという袿五領や籬菊螺鈿蒔絵硯箱などの神宝が、このときに奉納されたと考えられています。



その後本宮は、

1280年(弘安3年)、1296年(永仁4年)、1315年(正和4年)に焼失しますが、その度に再建されています。

そして、現在の本宮は、1821年(文政4年)の火災によって焼失後、1828年(文政11年)、徳川十一代将軍家斉によって造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。


楼門


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



鎌倉手帳


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2011年1月5日水曜日

除魔神事~鶴岡八幡宮~

源頼朝のころから行われているという悪魔払いの神事です。

弓矢での悪魔払いは古代より行われ、弓弦の音を響かせての厄払いが信仰されてきました。鶴岡八幡宮では、1月5日、舞殿(下拝殿)横に5尺2寸(156㎝)の的が設けられ、これを射て鬼を払うという儀式が行われています。

鎌倉時代には、「弓始」、「的弓」などと呼ばれ、武家の事始めとして行われていました。




まず、舞殿(下拝殿)で神事が執り行われます。

神事の後、舞殿横の放射の儀式が執り行われます。




蟇目の儀(ひきめのぎ)
先端の膨らんだ矢が放たれると大きな音を響かせます。
この音で悪魔を退散させるのだといいます。

大的が置かれました。
5尺2寸(156㎝)という大きな的を使用するので、
「大的式」とも呼ばれています。

「大的式はじめませぇ!」という号令の後、
2人ずつ3組の射手が、それぞれ2本ずつの矢を放ちます。

大的の裏には「鬼」と書かれています。
この的を射ることによって鬼払いをしようというものです。

さて、この大的ですが、わざと「鬼」の字を逆さにしているそうです。
そして「鬼」の字には角がありません。何故なのかは不明です・・・。



除魔神事
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鎌倉手帳
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2011年1月4日火曜日

腰越漁港の船祝い

腰越漁港の新年行事「船祝い」は、1月4日に行われます。
船主は船霊さまに挨拶し、今年の大漁と航海の安全を祈願します。






「船祝い」に先立って神童太鼓の公演。



船 祝 い
古くからのしきたりとして、参観者にはミカンが撒かれます。

ミカンの他にもお菓子が撒かれ、
大人も子どもも拾うのに夢中です。



海に浮かんだミカン


そして初船出。
小動神社江の島の弁天様に大漁と安全が祈願されるそうです。


鎌倉の祭・行事
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

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手斧始式~鶴岡八幡宮~

1月4日の「手斧始式」は、源頼朝が1180年(治承4年)と1191年(建久2年)に行った社殿造営の際に、由比ヶ浜に付けられた材木を一の鳥居から「木遣唄」を歌いながら舞殿まで運び、「墨ひきや手斧をかけたりしたこと」がはじまりと伝えられています。
(写真は平成21年のものです。)


段葛を御神木が運ばれていきます。
そして、舞殿前に泰安されます。

検知役以下の諸役によって所定の所作が奉仕されます。












 手斧やのこぎりなどの大工道具を使って古くから伝えられた所作が披露されます。


幣振役(斧振り役) 工匠(尺杖役) 鋸役 墨打役 手斧役 槍かんな役
の順で役目をつとめます。